■「いのちに関わる危険」
「いのちに関わる危険な暑さ」という、恐ろしい警告にもかかわらず、今日は猛暑の中を湯島に来ています。
それにしても、「いのちに関わる危険な暑さ」とはあまりにも過剰な報道用語です。
気象予報や安全警報に使われる用語には、私はいつも違和感を持ちますが、テレビを見ていると、もっと危機感をあおる言葉がいいと指摘する人が少なくありません。
問題は「言葉」ではなく、受け手の「感受性」ではないかと思うのです。
言葉が大仰になればなるほど感受性は弱まるでしょう。
せっかく自らで考えることを身につけたのに、逆戻りしているような気がします。
言葉に依存する社会はもろいものです。
自らの行動は、誰かの警報や注意に従い、何か問題が起これば誰かのせいにする。
そこまで行けば、さらにその先へと生き方は変わっていくでしょう。
そういう生き方にだけにはなりたくないと思っています。
自分のことは自分で考え、責任も取りたい。
「いのちに関わる危険」は暑さや自然災害だけにあるわけではない。
むしろ本当の「危険」は、人為の中にあるように思います。
熱中症での死がテレビで伝えられますが、あれは「暑さ」のせいだけではないでしょう。
社会のあり方や個人の生き方と無縁ではありません。
すべてを暑さのせいにしていいのかと、私は思います。
大仰に言えば、すでにして、私たちは人間であることを忘れさせられているのではないかと思いますが、これはきちんと書かないと伝わらないでしょうし、きちんと書いても伝わらないでしょうから、書かないことにして、ただ、「いのちに関わる危険」への感受性の鈍化や人々の関心の矛先替えが進められているのではないかという危惧だけは表明しておきたいです。
国会で何が進められているか。
沖縄や原発で何が進められているか。
たとえばそんなことさえ私には見えにくくなってきています。
気をつけなくてはいけません。
湯島にいますが、暑いのと食欲がないのとで、昼食を抜きにして、これを書いてしまいました。
暑さよりも栄養不良で倒れないようにしないといけません。
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