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2018/07/15

■カフェサロン「日本は核武装するべきか」の報告

30度を超す暑さのなか、しかも3連休の初日、「日本は核武装するべきか」というテーマに13人の参加者がありました。
それだけでもうれしかったのですが、議論も盛り上がりました。
最初に、参加者それぞれが日本の核武装に関する自説を簡単に紹介し、つづいて「文藝春秋」7月号でエマニュエル・トッドが提唱した「日本は核を持つべきだ」という論は自分の考えとほぼ同じだという武田文彦さんが問題提起してくれました。

トッドは、日本が依存している「米国の核の傘」はフィクションにすぎない、しかし、核とは戦争を不可能にするもので、第二次大戦以降、欧州で大きな戦争が起こっていないのも核の存在のおかげだ、だから日本は核武装すべきだというのです。

武田さんは、それも踏まえて、2つの問題(太田さんによる整理)を提起しました。
対米従属の日本が真の独立を得るためには、「日米安保条約の解消」とそれに代わる「対外的パワー(侵略抑止力?)としての核武装」が必要だというのです。
この前提には、いまの日本はアメリカに従属していて、独立国家とは言えないという認識がありますが、これに関しては参加者からの特に大きな異論はありませんでした。
日米安保条約に関しても、ほぼ全員がなくていいという意見でした。
問題提起者の武田さんが驚いたように、今回のサロンは昨今の日本の社会では特異な人の集まりだったかもしれません。
日米安保条約がなくてもいいと思っている人は、そう多くはないでしょう。
永続敗戦論や米国属国論はいわば流行的な現象にさえなっていますが、日米安保条約の恩恵を捨てようとは思っていない人が多いはずです。

次の問題は、核兵器は戦争(侵略)抑止力を持つかです。
ここでのポイントは、戦争に勝つ力ではなく、戦争を起こさない力を、核兵器は持っているかどうかです。
ちなみに、限定核兵器の話も出ましたが、そもそも核の力は人間が管理できるものではありませんから、私自身は限定核兵器などというのは概念的にありあえないと思っています。
一時期流行した「核の平和利用」と同じレベルの話です。

核兵器の抑止効果の有無に関する意見は別れましたが、核兵器は実戦には使えないにもかかわらず抑止力があるというのは、私には理解できません。
それは抑止力ではなく、暴力的な威圧であり、プロのボクサーとは喧嘩はできないという話なのではないのか。
しかしプロのボクサー自身はいつでも喧嘩はできます。
プロのボクサーには喧嘩がしかけたれないというだけの話で、それは非対称の抑止力ですから、戦争そのものの抑止効果とは違います。
いわゆる行動的な戦争ではない構造的な暴力戦争は、核兵器を持つ国によって引き起こされ続けていることは歴史が示しています。
古代ローマの歴史家タキトゥスは、ローマの皇帝たちは荒廃を生み、それを平和と呼ぶと書いているそうですが、平和とは誰にとっての平和なのかをしっかりと考えなければいけません。
私自身は、核兵器を持つことは、核クラブのメンバーになって、世界中の生活者を恐喝する側になることですので、まったく与することはできません。

それに関して、武田さんから核兵器抑止力と並んで、たとえば日本が病院を周辺国に無償供与することも戦争抑止につながるという話をしました。
核兵器による抑止と生活支援による抑止とは、理念が全く違いますが、そこをもう少し掘り下げると戦争とは何かがもう少し整理できるでしょう。
今回は「核兵器」がキーワードでしたので、その話は掘り下げられませんでした。

核武装する「日本」とは誰なのかの議論はあまりできませんでした。
核武装した時にだれが核兵器の発射のボタンを押すのかという問題です。
つまり核武装の主語は国家ではなく、個人として考えなければいけません。
あるいは少なくとも、核兵器のガバナンスの問題を抜きには考えられないということです。

戦争の意味が20世紀になってまったく変わったという認識が大切です。
30年ほど前に出版された「戦いの世界史」という本が4年ほど前に日本で翻訳出版されました。
人類は、どう戦ってきたかの詳しい報告で、面白い本です。
そこにこんな指摘があります。
「20世紀最初の10年が終わるころには、戦争において人間が主役だった時代は終わり、機械が主体となる時代が目前に来ていた。」
その後、戦争の変質に関してはさまざまな論考がありますが、戦場からどんどん人間がいなくなってきていることは間違いありません。
そうなると何が起こるか。
映画「ターミネーター」の世界です。
つまり対立の構図が全く変わってしまうわけです。
となると、誰に対する「抑止」なのかが改めて問われることになります。
それはとりもなおさず、「政治の捉え方」の変化につながります。
以前、サロンでお話した「統治の政治から生活の政治へ」というテーマです。
今回は残念ながらそこまでは行きませんでした。

コスタリカの話も出ました。
コスタリカに関しては以前ブログに書いた記事があります。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2005/03/post_2.html
そこからコスタリカの情報にリンクしています。
日本では軍隊のないことばかりが有名ですが、問題の核心はたぶん国家のあり方です。

核兵器は開発されてしまった以上、もうなくすことはできないのではないかという議論もありました。
となると、核兵器の管理をどうするかということが重要になります。
そこで出てくるのが、国境をなくす世界国家論です。
方向としてそういう方向を目指すべきだという話も出ました。
まさに憲法9条が生まれた時の、日本人側の思想であり、日本国憲法の前文の理念です。

なお、核兵器はいかに管理しても、原発がそうだったように必ず誤爆が起こるという指摘もありました。
その危険性は日々高まっている気がします。

核武装にはほとんどの人が反対でしたが、日本安保条約は不要と考える人が多かったということは、核不要論と言えるでしょう。
つまり、核などなくても自立できるということです。
逆に日本安保条約を破棄し、核武装するという人は、核兵器が独立国家の必須要件と考えているのかもしれません。
核がなければ自立できない、というわけです。
よく考えればわかりますが、両者の「自立」の意味は全く違います。

となると「国家(の独立)」とは何かということが問題になる。
核武装するべきかどうかという切り口から、いろんなことが見えてくるように思います。

今回はもっと核武装論支持者がいると思ったのですが、ほとんどいなかったのが驚きでした。
マスコミで接している日本人の考え方とサロンに集まる人たちの考え方の乖離なのか、現実とマスコミ報道によって作られる第二次情報との乖離なのか、それが改めて気になったサロンでした。

もう少し問題を絞ったサロンをまたやってみたいと思います。
たとえば、視点を変えて、世界の人々が平和であるために何をやったらいいか、というようなテーマのサロンです。
最初の問題提起をしてくれる人がいたらご連絡ください。

今回は報告がとても長くなってしまいました。
すみません。


Kakusalom1807_2


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