■ヘイトスピーチと言論の自由
今朝のテレビで知ったのですが、西日本豪雨で被災者の避難や救助活動が続く状況のなか、ネット上で在日朝鮮人に関するヘイトスピーチが広がっているようです。
http://www.kanaloco.jp/article/345315
実に悲しい話です。
テレビではヘイトスピーチ解消法が成立して2年もたつのに、一向に実効的な施策がたてられていないことを指摘する一方、ヘイトスピーチと言論の自由の保証との整理に難しさを報じていました。
言論の自由はヘイトスピーチを認めるものではないと私は思いますが、実際にはその評価は難しいのかもしれません。
しかし、他者を傷つけてまでの自由は許されるはずもありません。
一般論として簡単に論ずることは難しいですが、立場を変えて考えれば、簡単にわかることではないかと思います。
そもそも「ヘイトスピーチ」などという表現が問題かもしれません。
なぜ日本語で、はっきりと「人種差別行為」とか「誹謗中傷行為」といわないのでしょうか。
「言語による暴力」と言ってもいいでしょう。
いまのところ、ヘイトの対象はマイノリティに向かっています。
しかし、マイノリティは、いかようにも創りだされるものです。
在日外国人が対象になるだけではありません。
いつ私がマイノリティの一員にされるかは予断できません。
そもそも、自らが、マイノリティにされてヘイトされないように、自分とは無縁と言える、安全な対象を選んで、自らに矛先が向かないようにヘイトスピーチしているのではないかと私には思えます。
つまり、ヘイトするものが自らに内部にあることに気づいているからこそ、ヘイトスピーチとして、外部に放出しているのではないかと思います。
つまり、ヘイトスピーチは「解毒行為」であり、それにおののくあまり、過激な発言になってしまうのではないかと思います。
ヘイトは、常に自らに向かっているように思います。
私が国会議事堂前や街中のデモのシュプレヒコールが嫌いなのは、そこにそうしたものを感ずるからです。
その場にいるだけで、心が荒び穢れる気がして、暴力的な言葉が飛び交うデモには足が遠のきます。
たとえ相手が、ヘイトスピーチを繰り返している安倍首相であったとしても、私はヘイトを放したくはありません。
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