■節子への挽歌3920:「庭仕事の愉しみ」
節子
私の最近の畑仕事のことを時々フェイスブックに書いているのですが、それを読んだ一松さんがヘルマン・ヘッセの「庭仕事の愉しみ」を思い出しますとコメントしてくれました。
そういえば、昔よんだことがあります。
もしかしたらと思い、書庫を探したら運よく見つかりました。
本の一部は別の場所に運んでいるのですが、あまりに古いので自宅に残っていました。
それでなんとはなく読み直してみました。
私の記憶にはもう何もなかったのですが、面白い。
ソローの「森の生活」よりも、私好みです。
しかし、最初に読んだ頃はたぶんあまり面白くなかったのでしょう。
ソローは昔読んだ時の方が面白かった気がしますが、「庭仕事の愉しみ」はいまのほうが親しみを感じます。
その本にこんな文章が出てきます。
この地上のあらゆる生き物の中でひとり私たち人間だけが、この事物の循環に不服を言い、万物が不滅であるということだけでは満足できず、自分たちのために、個人の、自分だけの、特別なものをもちたがるというのはなんと不思議なことであろうか。
生命は循環し、生命は不滅である。
自然の一部として循環的に生きれば、永遠の生命を生きられる。
十分に理解できていませんが、なんとなく私も同感のような気がします。
大きな生命には終わりはない。
しかし、なぜ人は自分だけの特別のものを持ちたがるのか。
いや、なぜ「節子」という個人を自分の特別のものにしたがるのか。
ヘッセは、たぶんそんなことまでは言ってはいないでしょう。
循環から解脱したところに、個人の生はあるのかもしれません。
それはそれとして、ヘッセを読みながら、思いました。
節子と一緒に、畑仕事をする老後がなぜ奪われたのだろうか。
そしてなぜ、いま、ひとりで庭仕事を始めたのか。
節子が私を動かしているのかもしれません。
同行2人?
そんな気がしないでもありません。
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