■節子への挽歌3962:「障害者は不幸しか作れない」
節子
2年前の今日、相模原市の津久井やまゆり園で障害者殺傷事件がありました。
不幸な事件ですが、ある意味では社会を象徴する事件でもありました。
時評編に書いたのですが、やはり挽歌編にも書いておきたくなりました。
この事件では衝撃的な言葉がいろいろと流れましたが、「障害者は不幸しか作れない。いない方がいい」という言葉は、とてもさびしい言葉でした。
そんなことはまったくないのです。
私たちが結婚して間もないころだったと思いますが、節子の母が入院しました。
それで2人で、滋賀の病院にお見舞いに行ったことがあります。
同じ病院に、節子の生家の集落の知り合いの人の息子が入院していました。
自動車事故で、意識が戻らないまま、寝たきり入院していたのです。
高齢の祖母が、毎日、病院に看病に来ていました。
看病と言っても、意識がないまま寝たきりになっているので、身体を拭いてやったり、声をかけたり、そこに寄り添っているだけのようです。
入院以来、日課は病院に来ることが、祖母の日課になりました。
その患者と祖母がどういう関係にあったのかは、私は知りません。
しかし、不謹慎な言い方ですが、私にはその祖母の方が、とても幸せそうに感じたのです。
そのことが、私はずっと忘れられないでいます。
誤解されそうな言い方ですが、看病することは、いかに幸せなことか。
それを知ったのです。
節子の胃がんが再発し、最後の1か月はかなり厳しい闘病生活でした。
私にも、精神的な余裕がなくなり、いまから思えば、悔いることが山のようにあります。
最後は、節子はほとんど話ができませんでした。
でもそこに節子がいることが、どんなに人生を豊かにしてくれたことか。
節子もそれを知っていた。
節子の最後の半月は、たぶん私たち家族を幸せにするために会ったのだと思います。
人は存在するだけで、まわりに幸せを生み出しているのです。
そのことを知らないでいる被告をどうしたら幸せにしてやれるのか。
不幸を生み出すのは、障害者ではなくて、幸せというものへの体験のなさなのかもしれません。
不在こそが不幸を生み出す。
私は、節子がいなくなってから、不幸の意味を知りました。
生活するうえで、障害を持っている人は少なくありません。
しかし、存在することがなにかの障害になる人はいない。
「障害者」は、生きる上での障害を持っていても、決して社会の障害となる存在ではないのです。
むしろたくさんの幸せを生み出している存在ではないかと、私は思っています。
いなくてもいいのではなく、いなくては困る存在なのです。
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