■節子への挽歌3915:死の積極的な意味
節子
つづいてもう一つ書きます。
先週、真宗大谷派僧侶で、超宗派寺院ネットワーク「寺ネット・サンガ」初代代表の中下さんが湯島に来ました。
8月に中下さんのやっている早稲田大学のエクステンションスクールの講座で話をするように頼まれているのですが、その打ち合わせです。
打ち合わせはすぐに終わり、話は先日会った時に、身寄りのない人の葬儀について私がチラッと話したことの話題になりました。
中下さんはたくさんの人を看取り、葬儀の現場に関わってきました。
そうしたなかから、まだ漠然とではありますが、死を不安に感ぜずに、平安な生の支えになるような仕組みを、みんなで育てられないかと考えているようです。
具体的にどう設計したらいいかは、まだ思索中のようですが、中下さんとお話していて、その「構想」が演繹的にではなく、中下さんのさまざまな実践活動のなかから生まれてきたということに共感しました。
死は、口では説明できないのですが、大きな力を持っている気がします。
父親の葬儀の時に、死には人をつなげる力があると感じた記憶がありますが、節子の死を体験して、死という、誰もが避けがたい現実を積極的に捉えた仕組みができないだろうかと漠然と思っていました。
ですから中下さんの思いにはすぐ共感でき、私にも何かやれることはないだろうかと考えました。
死を要(かなめ)にして、人のつながりを育て、平安な生き方ができるコミュニティや支え合う仕組み。
いま私が取り組んでいることも、そうした仕組みにつながっているのかもしれません。
中下さんは大学での講座の謝礼を持参してくれましたが、謝礼はやめてもらい、その代わりに中下さんに湯島でサロンを開いてもらうことにしました。
どんなサロンになるか楽しみです。
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