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2018/07/30

■節子への挽歌3969:石器人の豊かさ

節子
さわやかな朝です。
今日は朝早くから出かけるので、畑はやめました。
台風のおかげでたっぷり雨も降りましたし。

昨日の挽歌に書いた「ありがとうもごめんなさいもいらない森の民」を読み終えました。
いろいろと考えさせられました。
プナンのひとたちは、まだ「倫理」が生まれる前の、自然と共にある段階に生きているというようなことが、とても具体的に紹介されているのですが、その多くがとてもなじめました。
近代以前どころではないのです。

私はフェイスブックの自己紹介に、「コモンズの回復をテーマに、自分に誠実に生きています。 社会に誠実かどうかは確信が持てませんが。現代社会にはあまり適応できずにいますが、 誕生以来の人類としてはとても平均的な人間です」と書いています。
いささか大仰の自己紹介ですが、私としてはとても気に入っています。
奥野さんの本にも出てきますが、ずっと前に、アメリカの人類学者マーシャル・サーリンズの「石器時代の経済学」を読んだ時に感じたことが、その後の私の思考の基準の一つになっています。
一言でいえば、進歩主義への疑問です。
もっと言えば、直線型に流れる時間観への疑問です。
サーリンズは、同書で、石器時代人の暮らしの豊かさを描いていました。
奥野さんは、それを紹介して、こう書いています。

食料を探すことに汲々としている貧しい社会という古くからのイメージを覆して、狩猟採集民社会を、生きるための労働に費やす時間が近代産業社会のそれよりずっとずっと少なく、余暇の多い「豊かな社会(affluent society)」であると捉えなおした。プナンの森の狩猟小屋での生活は、サーリンズが言うような、アフルーエントな雰囲気に満ち溢れている。

最近では、石器時代の捉え方そのものまで変わってきているように思いますが、私が学校で学んだ歴史は、近代人が創り上げた自己賞賛のフィクションだったような気がします。
サーリンズの話は、時々、湯島でもしていましたが、誰からも笑われてばかりいたので最近は忘れてしまっていました。
そのサーリンズに再会できたのも、本書を読んだおかげです。
私の中にさえ、そうした自然人の血が流れているのを感じますが、その視点で「豊かさ」を捉え直すと、人生観は一変するような気がします。

さてそう言いながらも、今日は近代社会での仕事をする日です。
しかしもしかしたら、そこにもプナンの豊かさに通ずるものを見つけられるかもしれません。
なにに出合えるか、楽しみになってきました。
今日はある会社でずっと過ごす予定です。

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