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2018/07/20

■節子への挽歌3952:価値とは、失って初めて気づくものかもしれません

節子
暑い中を湯島に来ています
来客は3時からですので、4時間ほどを一人で過ごしています。
エアコンがあるため、自宅よりも涼しいですが、だからと言って何かをやる気力が高まるというわけでもありません。
しかし、この静かな時間は、それなりにいいものです。
節子がいたら、もっといいのですが。

会社を辞めた後、節子と一緒に湯島で過ごす時間はそれなりにありました。
来客は多かったとはいえ、いつも来客があったわけでもありません。
節子と2人だけの時間もありました。
その時間は「豊かな時間」だったでしょうか。
いまから思えば、無駄にしていたような気がします。
いまさら後悔しても始まりませんが、つくづく自らの愚かさを悔いるしかありません。

人は、その時の時間の価値に、なかなか気づかない。
価値とは、失って初めて、気づくものかもしれません。
もしそうならば、失わなければ、気づくこともない。
豊かさや幸せは、失ってこそ、気づくとすれば、失うことこそが、幸せと豊かさをもたらすのかもしれません。
しかし、その時にはもはや、その幸せと豊かさはない。
おかしな話です。

この静かな時間にいると眠くなってきます。
やることがないので、先ほど、時評編を書いてフェイスブックにも投稿しました。
しかし、まだ1時間半も時間がある。
節子がいたころは、なんであんなに時間がなかったのでしょうか。
時間を持て余すことなどありませんでした。
最近は、時間を持てますこともめずらしくありません。
幸せや豊かさがない証拠かもしれません。

さて残りの時間、何をやりましょうか。
話し相手もいないですが。


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