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2018/08/18

■節子への挽歌4001:あっという間の4000日

節子
挽歌もとうとう4000回を超えました。
節子が逝ってから4000日目ということです。
それが長いのか短いのか、複雑な思いですが、実際にはまだ「あの日」の続きの中で生きている気がします。
たしかに、気持ちも整理され、節子の不在が日常になり、精神的混乱もほぼなくなり、論理的な思考力も戻ってきてはいますが、だからといって、新しい人生が始まったという気はありません。
困ったものですが、もしかしたら1日目と同じところでまだ止まっているのかもしれません。
できることなら、1日前に戻りたいという未練がましさから解放されることはありません。

伴侶を得ることが人生を変えることであれば、伴侶を失うこともまた人生を変えることのはずですが、正確には前者は「人生を得る」ことであり後者は「人生を失う」ことのような気がします。
人生を失ってもなお生きていることの、哀しさや辛さが、そこにはあります。

しかし、その一方で、節子のいない生活が日常化したということは、裏返せば、「不在の節子」がいるということでもあります。
「節子の不在」に慣れてしまったわけです。
いつか伴侶のいずれかが先に逝くことは、多くの場合、避けられません。
別れの期間が長いか短いかは人によって違います。
伴侶との関係もいろいろあるでしょうが、私の場合は、どうもあまりに依存関係が強かったために、その不在に耐えるには、来世を信じざるを得ないのです。

しかし、4000日も経ってしまいました。
もっとも仏教的な時間感覚から言えば、4000日などは、あっという間の瞬間でしかありません。
たしかに、私の今の実感でも、4000日は「あっという間の一瞬」でした。
その間にいろんなことがあったのでしょうが、なぜか「現実感」があまりない。
すべてが縁起によっておこった空の世界という実感があるのです。

もしかしたら、仏教とは、愛する人を失った人の、止まっている人生のもとにつくられた思想体系かも知れないと、ふと感じました。
お釈迦様は、きっとみんなにすごく愛されていたのでしょう。
提婆達多も、きっと「シッタルダの不在」に耐えられなかったのかもしれません。

さて今日から、4000日を超えた人生が始まります。
実にさわやかな朝です。

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