■スマホをなくすという罪を犯してしまいました
昨日、携帯電話をなくしてしまいました。
落したのは、電車の中か、乗換駅か、です。
ちょっとパニックで、交番に届けたりスマホの会社に電話したり、JRに問いあわせたり、もうそれだけで疲れてしまいました。
最近のスマホは、携帯電話機能だけではなく、そこにさまざまな生活記録が残っているので、問題は自分だけではありません。
私のスマホには私の記録だけではなく、他者の言動の記録や個人情報(電話番号など)が記録されていますから、他者にも迷惑をかけかねないということです。
こう考えると、スマホとは私物であって、私物ではないということに気づかされます。
物としては私物なのでしょうが、それを通して様々な人たちが交流していて、その痕跡が残っていることを考えれば、友人知人との共有物です。
とすれば、スマホをなくすということは、犯罪といってもいいのかもしれません。
そう考えているうちに、罪の意識が強まって、真夜中にまたJRの遺失物センターに電話しました。
残念ながらまだ見つかりませんでした。
近代は個人をバラバラにしたと言われます。
そうして生まれたバラバラの個人(個我)を要素にして、社会を再構築したといってもいいと思いますが、その大きな動きがどうやら次のステップに移り出していることを、スマホをなくしたことで気がつきました。
私のいささか飛躍した展望に基づけば、それを進めているのはAIだと思いますが、もはや私たちは、ひとりの人間として生きることが許されなくなってきているのかもしれません。
バラバラの個人がデータ的に繋がれて、AIが管理する「平安な社会」のモジュール端末になりつつあるわけです。
そこには「個人」は不在です。
人間が部品に変質しているというのが私の認識なのですが、どうも単なる部品ではないようで、部品の材料でしかないのです。
世界観が少し変わりました。
いや、一変したと言えるかもしれません、
こうした流れにどう抗うか。
最近読んだ本に出てきた。ラッセルの「幸福論」の一節を思い出しました。
どう考えようと、わたしたちは大地の子である。わたしたちの生命は大地の生命の一部であり、わたしたちは植物や動物と同じく大地から生きる糧を得ている。
畑で土を耕すとき、いつも、大地と対話しているような幸せを感じます。
私たちがつながるとしたら、AI志向の科学技術に依存することによってではなく、大地とそこに根差して生きている生命同士の心や魂によってでなければいけないと、改めて思います。
スマホをなくしてしまうことは、罪深いことです。
認識を新たにしました。
これから畑に行って、大地とまた話してきます。
そして少し頭を冷やしてきます。
懺悔しながら。
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