■節子への挽歌4005:死の中にある生
節子
この10日ほどのうちに、死に関わるケアに関する本を3冊読みました。
1冊は昨日書いた「死すべき定め」ですが、ほかの2冊は「「在宅ホスピス」という仕組み」(山崎章郎)とかなり古い本ですが、「ケアの思想と対人関係」(村田久行)です。
その前にも、「人は「死後の世界」をどう考えてきたか」(中村圭志〉なども読んでいますので、死にまつわり本を何冊か読んできました。
湯島のサロンでも、死を要にしたコミュニティの話や相模原事件に関連しての「いのち」の話をしていますので、この夏はいろいろと生と死を考える機会がありました。
「ケアの思想と対人関係」は、改めてスピリチュアルケアについて考えたくなって読んだのですが、20年ほど前の本なのに、日本の医療界や福祉の世界はあまり変わっていないような気がしました。
しかしそれ以上に私にとってショックだったのは、私自身がキュアからケアへの切り替えができていなかったことに気づかされたことです。
頭ではわかっていて、コムケア活動を始めた時の最終選考会での冒頭のスピーチでは、そういう話を話していたのに、自分自身がまだキュア思想を引きずっていたのです。
節子に対しても、もしかしたらまだ「キュア」発想に引きずられていたかもしれません。
最後の最後まで、節子は治ると確信していたのも、そのせいかもしれません。
私には、死という概念がまったくなかったのです。
節子はどう感じていたでしょうか。
しかしはっきりといえることは、そういう私に、節子はすべてを任せていたということです。
私がどうにかしてくれると思っていたような気もします。
たとえ、それが死につながろうとも。
あの時の私たちにとっては死もまた生の一部だったのかもしれません。
そんな気が最近しています。
明日からミンデルの「シャーマンズボディ」を読もうと思います。
8月は、彼岸との交流の季節ですので。
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