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2018/08/03

■節子への挽歌3980:昭和の人は過去の人

節子
先日、20代の若い女性から、「昭和の人は過去の人」と指摘されてしまいました。
過去の人がいかに新しいことを言っても行動がついていっていない、という指摘でした。
私のことを言ったわけではなく、彼女の周辺にいる人たちのことをそう表現したのです。
話を聞いていて、実は私も昭和の人なので、すみません、とつい謝ってしまいました。
彼女は慌てて、私のことではないといいましたが、私が「昭和の人」であり「過去の人」であることは間違いない事実です。
そして、そうした昭和の人が相変わらず社会の要職を占めていることには違和感があります。それに、過去の人が偉そうなことを言う風景は、私も辟易しています。
口で言うなら、行動もしろ、と私もよく思うことがあるので、彼女の言い分はとても納得できるのです。

いま話題のスポーツの不祥事の報道を見ていると、同じように感ずることがよくあります。
過去の人たちが寄ってたかって、自分たちの世界を正当化する仕組みをつくっている。
そんな感じのことも少なくありません。
しかし、「昭和の人は過去の人」と正面から言われると、「過去の人にも価値がある」とも言いたくなります。
私も若いころ、明治の人や大正の人に結構価値を感じたこともありますから。
もう終わってしまった古い人だって、価値がないわけではありません。
しかし大切なのは、主役にはなり得ないという自覚でしょう。
脇役や黒子としての価値は、過去の人にもあるはずです。
それに、過去と現在と未来はつながっているし、どれが一番新しいかはわかりません。
平成が昭和より新しいわけでもない。
私の時間観はいささか特殊なためややこしくなるので、ここら辺でやめましょう。

過去の人として、何ができるか。
そういう意識を持って、過去の人らしく、現在に役立っていこうと思っています。
「未来の人」と言われるよりは、生きやすいかもしれませんし。

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