■節子への挽歌3976:異様な猛暑
節子
今日は昨日までの3日間にあった32人の記録を思いだしながら記録しようと思っていたのですが、あまりの暑さに、クーラーのない私の作業場ではとてもパソコンはできません。
それに今日発見したのですが、暑い中にいると眠くなります。
雪山で遭難した人が眠くなるのを思い出しました。
人はある範囲の温度のなかで、生きていける、つまり思考していけるのでしょうか。
まあ、暑さの中で死んでしまうのも、ちょっと魅力的ではありますが、それではいかにも無責任なので、クーラーが最近作動しているリビングで過ごすことにしました。
そこでまた発見したのですが、人は快適な温度の中にいると眠くなるのです。
いやはや、今日はどんな状況を作っても眠くなってしまうようです。
そういうときには素直に眠るのが言い。
というわけで、午後、1時間ほどソファーで寝てしまった。
目が覚めて、部屋の外に出たら、異様な暑さです。
「危険な暑さ」」とテレビで報道されるのを見るたびに、私はどうも違和感があったのですが、それが納得できるような暑さだと認めざるを得ないと思いました。
「危険な暑さ」という表現を非難したことの不明を恥じます。
大きく反省。
そういえば、反省はサルでもできるとよき割れていました。
しかし最近、そういうことをいう人がいなくなりました。
人間はだんだん反省することを忘れたのかもしれません。
機械は反省などしないですから、機械の部品へと進化しつつある人間たちの辞書からは「反省」という言葉が消えだしているのかもしれません。
その証拠に、テレビでは、なんだか同じような不祥事や茶番劇が、形を変えて次々と起こっていることが報道されています。
この挽歌は、今、リビングで書いています。
古いノートパソコンを引っ張り出してきて、書いているのですが、ちょっと使いにくいので、疲れます。
もしかしたら来月、不定期な収入がありそうなので、新しいパソコンを買えるかもしれません。
でもその頃は多分涼しくなっていて、部屋でパソコンができるようになっているでしょう。
人生はなかなかうまくいきません。
さて長いこと冷房の聞いた部屋にいるとなんだかどこかに行きたくなります。
しかしこの暑さ。
危険を回避するために、もう少しこの部屋にいようと思います。
こうして人間は生きることをやめていくのでしょうか。
生きるということは危険と付き合うことなのに、危険から逃げているようでは、生きている意味がない。
さてどうしましょうか。
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