■節子への挽歌4014:時空間感覚
節子
魔の8月も今日で終わります。
節子が現世で過ごした最後の8月も暑かったですが、今年はその比ではありませんでした。
灼熱の地獄のような暑さでした。
今日も暑い日になりそうです。
しかし、11年前の夏に比べたら、私には天国と言ってもいいくらいです。
それにしてももう11年も会っていないわけです。
そんな感覚はないのですが、この調子だと、あれ、もう100年たつのかということにもなりかねません。
時間は動いているのでしょうか。
昨日また、武田さんと長電話してしまいました。
テーマはなんと「宇宙のビッグバン」。
ニュートン力学と昨今の宇宙物理学とでは、世界はまったく別のものになっていると思いますが、では、たぶん
話していて、空間と時間の感覚が全く違うことに気づきました。
以前から私は、意識の上ではちょっと時空間感覚がほかの人とは違っていましたが、節子が旅立ってからは、それが実感的になってきています。
時空間が一体化し、その捉え方も固定感覚はなく、とても柔軟なのです。
明日の次に今日があるとか、今日が誕生日だとか、我孫子と滋賀とは離れているとか、そう言う感覚が弱まっています。
ですからどうも話がかみ合いません。
困ったものです。
その一方で、私自身、ああもう8月が終わるとか、節子の命日が近づいたとか言っているわけですから、矛盾しているのですが、そうした2つの時空間感覚がある。
生きていくには、まだまだいろんな制約があるのです。
その制約を超えて生きることはまだできていません。
今日は東京国立博物館に縄文展を見に行くのですが、これもまもなく終わるので、どうしても今日行っておかねばいけないと思って、今日は縄文展を優先しました。
なかなか行けずにいたのですが、最後の最後が今日なのです。
しかし、とは言うものの、私の時空間の捉え方は、極めて状況主義的です。
三次元に縛られた、現世の人間界から飛び立った節子の世界は、どういう世界でしょうか。
あの世は、時空間が折り重なった世界だという人もいますが、此岸と彼岸を分けているものはなんなのでしょうか。
それを乗り越えるのは、人間には無理なのでしょうか。
宇宙のビッグバン議論から、少し話が飛んでしまいました。
さて今日は、縄文の世界に触れてきます。
しかし、その場は、自然などなく、人で密集した極めて現代的な時空間なのでしょう。
おかしな話です。
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