■節子への挽歌4010:死後の行先がわかれば死は不安ではなくなる
節子
昨日、中下さんの「生と死を考えるサロン」のパート2でした。
とてもいいサロンでした。
その中で、中下さんが、死後、どこに行ってしまうか、その先が見えないことが死の不安につながっているというような話をしてくれました。
そこで気づいたのですが、私は、死後、自分がどこに行くのが確信できているおかげで、死の不安がないのです。
死んだら、天国でも地獄でも冥界でもなく、ともかく節子のいるところに行けると考えています。
別に証拠があるわけではなく、あるいは信仰があるわけではなく、そう思うのは実に簡単な理由からです。
節子を基準に考えれば、節子のいる世界といない世界がある。
そしていま私が生きている世界は、節子のいない世界。
そうであれば、その節子のいない世界から外に出たら、節子のいる世界に行くことになる。
あまりに単純な発想なので呆れられるかもしれませんが、極めて論理的な発想です。
死は、節子のいる世界への入り口、と考えれば、死は怖くも不安でもないわけです。
もっとも、そこで節子に会えるかどうかはわかりません。
しかし、今の世界で節子に会える可能性はゼロですので、もう一つの世界の方が可能性は高いと言ってもいいでしょう。
もちろん「死後の世界」があるかどうかわからないという人もいるでしょう。
いかし、「ない」と言い切れる人もいないでしょう。
私は、もし「死後の世界」がないのであれば、そもそも「死」は存在しないと思っています。
いまはうまく説明できませんが、私には公理のような気もします。
そんなわけで、私がなぜ、死を不安に思わないかが、今日、中下さんのサロンの話を聞いて納得できました。
まあ大した話ではないような気もしますが、私には大きな発見でした。
死後の世界に行って帰ってきた人の話は世界各地にあるようです。
古代ギリシアのオルフェウスや古事記にあるは有名です。
しかし、いずれも彼らは死後の世界から愛する人を連れ戻そうとして失敗します。
これは私には不思議です。
なぜ連れ戻そうとしたのか。
自分が向こうに行けばいいだけの話です。
彼らは、愛する人よりも、自分を愛していただけの話です。
失敗は最初からわかりきったことです。
私はずっとそう思ってきています。
死後の世界が、たとえどんな世界でも、私はたぶん肯定的に受け入れられるでしょう。
そこに、愛する人がいれば、ですが。
そして、いるに決まっていると、私は、いまは思っています。
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