■節子への挽歌4030:四季朝夕の尋常の幸福
節子
挽歌はやはり、朝起きてすぐに書かないと、ついつい忘れてしまうことがあります。
できるだけそうしようと思うのですが、なかなかそれを続けるのは難しいです。
私の場合、寝室の隣が私の部屋で、そこにパソコンがあります。
起きてすぐにそこに行って、パソコンチェックをすることから私の1日ははじまります。
これは節子がいた頃と同じです。
しかし、パソコンを開くと、思わぬメールが届いたりして、それで1日が変調してしまうこともあります。
寝坊してしまって、挽歌をかけないこともあれば、早く起きすぎて、後で書こうと思って結局書き忘れることもあります。
習慣化するということはなかなか難しい。
先日、阿満利麿さんの「日本人はなぜ無宗教なのか」という本を読みました。
とても共感できる本で、20年以上前の本なのに、古さを感じません。
私の思っていたことや私の生き方からは、とても共感できる内容でした。
そこに、「四季朝夕の尋常の幸福」という言葉が出てきました。
柳田国男の『山の人生』に出てくる言葉です。
柳田国男は、日本の民衆の「平凡」志向に共鳴していました。
そこにこそ、日本人の信仰心が現われていると考えていたのです。
いや、そこから日本人の信仰心が生まれてきたという方がいいでしょうか。
いずれにしろ、日本人の理想は「四季朝夕の尋常の幸福」にあったと柳田は考えています。
阿満さんは、そうした日常生活をなによりも尊重する考え方を「日常主義」と名付けています。
私は、頭ではそう思う一方、非日常に大きな価値を置いていました。
節子が発病して、節子との距離をより近いものにすることによって、日常主義が次第に身についてきました。
挽歌では何回も書いた気がしますが、再発後の節子の願いは、まさに「四季朝夕の尋常の幸福」でした。
朝晩に、そのことを念じながら、節子は誠実に一生懸命生きていた。
そしてたぶん、辛さのなかでも、それを感じていたと思いたい。
節子は、「四季朝夕の尋常の幸福」の大切さを、身を持って私に教えてくれたのです。
しかし、「尋常の幸福」とは何か。
それは愛する人や信頼できる人と共にあることかもしれません。
一人では生きていけない人にとって、共にいて心やすまる伴侶の存在は、それだけで幸福ですが、その伴侶がいなくなった時の「尋常の幸福」とは何でしょうか。
残念ながら、いまもって答えがわからない。
でも、おかげで私の信仰はしっかりとしたものになった気がします。
いまの私にとっては、この信仰心が尋常の幸せをもたらしてくれているのかもしれません。
節子に感謝しなければいけません。
さて、これから位牌に挨拶して、1日をはじめようと思います。
外もすっかり明るくなりました。
秋の空です。
| 固定リンク
「妻への挽歌18」カテゴリの記事
- ■第1回リンカーンクラブ研究会報告(2021.09.06)
- ■節子への挽歌4500:東尋坊からのお餅(2019.12.28)
- ■節子への挽歌4499:歯医者さんと節子(2019.12.27)
- ■節子への挽歌4498:年末のお接待(2019.12.26)
- ■節子への挽歌4496:年末の相談つづき(2019.12.24)
コメント