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2018/09/03

■言語とは生活のかたちの一部

日本体操協会の塚原夫妻のパワハラ問題はますますおかしな方向に動いていますが、昨今のスポーツ界の不祥事は、どれもこれも同じで、しかも前から多くの人がわかって来ていたはずのことでしょうから、語る起きなかったのですが、やはり語りたくなってしまいました。
昨日、突如公表された塚原夫妻の謝罪文なるものが、まさに現代を象徴していると思えるからです。
それに、このおぞましい文書には強い怒りを感じます。

「言語とは生活のかたちの一部」と言ったのは、ウィトゲンシュタインだったそうですが、まさにこの謝罪文には、塚原夫妻の生活のかたちが示されています。
相手が謝罪を受け入れてくれるのであれば謝罪する。
少なくとも、その言葉に、彼らに謝罪の意図がないことが明白です。
いや、謝罪の意味さえ分かっていない。
自らが謝罪することなど存在しない世界に生きているのでしょう。
謝罪は相手の問題ではなく、自らの問題ですが、そう言う意識は全くありません。
謝罪する気になれば、すぐの謝罪に行けばいい。
会ってもらえなければ、会ってくれるまで行けばいい。
それが誠実さであり、謝罪するということです。
謝罪まで駆け引きする生き方が、塚原さんたちの生き方なのでしょう。
そこに、すべての真実が見えてくるような気がします。

ジョージ・オーウェルは、現在を予告した小説「1984年」で、言葉を選び取る責任を言っています。
人は、どんな言葉を選ぶかで、生活や真情をメッセージできますし、露呈させてもしまいます。
これまでスポーツ界の不祥事で記者会見した権力を持つ人たちの発言をきちんと聞けば、事件の真相はおおむね見えてきます。
言葉は嘘をつきますが、その嘘もまた、言葉の後ろに見え隠れしています。
不誠実なマスコミやコメンテーターはだまされても、誠実に生きている生活者はたぶんそこから嘘を感ずることができるでしょう。

古田徹也さんの「言葉の魂の哲学」(講談社選書メチエ)という本を読みました。
1世紀前のオーストリアの作家カール・クラウスの言語論が紹介されています。
クラウスは、ナチスの台頭する状況の中で、「誰しも自分の話す言葉に耳を傾け、自分の言葉について思いを凝らし始めなければならない」と呼びかけていたそうです。
多くの人が、わかりやすいヒトラーの呼びかけ(小泉元総理が真似をしたと思われる呼びかけスタイル)に引っ張られていく中で、それに抗う方法を提唱していたのです。
古田徹也さんは、上記の本のなかで、「クラウスの呼びかけは、他のどの時代よりも、まさにいま現在の我々に突きつけられていると言えるだろう」と書いています。
他者の言葉にも耳を傾けるとして、しかし、それ以前に先ず、自らの言葉に耳を傾けるべき時だと、私も最近痛感しています。

塚原夫妻の生き方(生活の形)は、今や大きく広がっている生き方の典型例だろうと思います。
スポーツ界だけの話ではなく、政治も経済も行政も芸術も医療も、そして福祉さえも。
そんな気がしてなりませんが、まずは自らを質さなければいけません。


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