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2018/09/30

■節子への挽歌4043:私は自然に愛されています

節子
大型台風が九州に近づいている影響もあってか、我孫子でも朝から雨が降っています。
午後からは風も強くなってくるようです。
午後に予定していた湯島のサロンは延期しました。
台風の影響でのサロンの延期は、今年は2回目です。
台風が来れば、むしろそれに向かって出かけていた昔とは大違いです。

雨は、時に生命を癒し育て、時に生命を萎えさせ抑えます。
同じ自然も、その時の自分の状況によって、意味が全く違ってきます。
しかし、自然の影響に左右されるのが、生命です。
私は、それを大切にしています。
自然の呼びかけには精いっぱい応え、その意にできるだけ従うようにしています。
今日の雨は、どうも私には実に悲しく寂しい雨です。
無性に悲しい。
なぜでしょうか

昨日、一度しか会ったことのない女性からメールが来ました。
先日開催した「宗教」をテーマにしたサロンの報告の記事を読んで、話しかけたくなったようです。
こんな文章がありました。

私は毎週教会にいっている一応クリスチャンです。 しかし信仰を持っているということを言うのに勇気がいりますし、隠しているわけではないですが、あまり人に言いたくない気持ちです。 なるべく言わないようにしている、と言ってもいいかもしれません。 言いにくい雰囲気があるのか、言った時の周りの反応が怖いのか‥自分にとっての信仰をいろいろ考えているところです。

この人にとって、「信仰」とはなんなのか。
他者に語りたくない「信仰」とはなんなのか。
一度、お聞きしたくなりました。

宗教や信仰を、なぜあっけらかんと語れないのか。
隠れキリシタンや隠れ仏教徒の歴史が、いまなお日本人の社会には影を落としているのかもしれません。
いや明治政府による、内心の信仰を個人の内部に抑え込む政策が功を奏したからかもしれません。
それによって、日本人はバラバラの存在になってしまった。
しかし、信仰のない人を、私は信頼できません。
信仰とは、自らが生きていく上での基軸ではないかと思います。
もちろん、信仰の対象はキリストやムハンマドやブッダである必要はありません。
むしろ彼らが進行したものこそが、信仰の対象でなければいけない。
それは、私には自然であり、自然の向こうにあるものです。
ですから、自然の摂理に身を任すことが、私の信仰の基軸です。

ですから、台風は私にはとても大きな意味を持っています。
最近の「異常気象」もそうですが、そうしたことを通して、自然は私に生き方を問うてきているとさえ思えるのです。
「防災」という発想には、どうしてもなじめません。
できるならば、私は自然と共にありたい。
そうすれば、自然が禍を起こすことなどあり得ない。
そう確信しています。
ですから防災グッズはわが家にはありません。
誤解されそうないい方ですが、それで誰かに迷惑をかけるような生き方をするつもりはありませんし、そうはならない心がけはしていますが。

ところで、今日の悲しさの気分ですが、これはたぶん最近陥っている「厭世観」のためでしょう。
だんだん人間がいなくなって、生きているリアリティがだんだん希薄になってきているのです。
しかし、訃報や入院の話は同じように届きます。
今日も知人の告別式ですが、参列する元気が出ません。
人に会うのが、少し疲れているのかもしれません。

寂しくて、哀しくて、そんな1日になりそうです。
しかし夕方には風が強まるそうです。
風が出てくるとまた気分は変わるでしょう。

私は、自然に愛されています。

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