■第三者委員会という無責任な仕組み
昨日書いた日本体操協会の不祥事の決着は、またまた「第三者委員会」に判断が回されました。
最近は、何かがあるとすぐに「第三者委員会」です。
そしてすべてはうやむやになるというのが、これまでの繰り返しです。
「当事者」は一体どこに行ったのか。
それに、「第三者」とはいったい何なのか。
この仕組みを考えた人の狡猾さを呪いたくなります。
いつの場合も、第三者とは「加害者」もしくは「権力が優位な立場のある人」の代弁者でしかありません。
価値中立な第三者がもしいるとしても、問題が起きている時の価値観の中心点は、いうまでもありませんが、加害者側に近いはずです。
特に、社会の大きな流れに抗って起きるような、今回のような体制批判的な問題に関しては、必然的にそうなるはずです。
それに、「第三者」がもし、その事件の利害に無縁な立場を意味するのであれば、そういう人には当該の問題は判断できないでしょう。
問題の意味を理解し、価値観を含めて解決できるのは、当事者を置いてはあり得ません。
ただ、そうした「第三者」が、いわゆる既存の社会体制のなかで、それなりの地位を得ている人ではなく、裁判員制度のように、ランダムに選ばれた生活者であれば、「第三者委員会」はかろうじて成り立つかもしれません。
しかし、それはデータ入力によって結論を出すAI(人工知能)の計算結果でしかありません。
それに、第三者委員会の委員に指名されたとたんに、その人は第三者ではなくなります。
ですからそもそも「第三者委員会」などというのは、実体のない虚構に過ぎません。
にもかかわらず、第三者という言葉が、公正さをイメージさせてしまう。
むかしは、「第三者」とは無責任の象徴だったはずなのに、うまく言いくるめられたものです。
そんなことに気づいてほしいものです。
要するに第三者委員会とはマネーロンダリングのような罪悪浄化システムでしかありません。
これまでのさまざまな第三者委員会の実績を思い出せば、わかる話です。
第三者委員会のメンバーになる人は、それによって得た情報を開示できない仕組みになっていると思いますが、そうした巧みな仕組みに荷担する人は信頼できません。
第三者であれば、知り得た情報は自由に開示しなければいけません。
まともな生き方をしている人なら、第三者委員会の委員にはならないでしょう。
それにしても、責任ある立場にある大人が、自らのやったことの責任は第三者委員会の判断を待って決めますなどと未成年の子どものようなことを、恥じることもなく言える社会には、ほとほと失望します。
塚原夫妻は、スポーツ界のために尽力してきた人でしょうし、私欲もそんなにはなかった人かもしれませんが、人間としては残念ながら未熟すぎます。
こんな人たちが、社会を背負っていたのかと思えば、情けないというか、呆れるというか、疲れがどっと出てきます。
最近活躍しているチコちゃんに、「ボーっと生きてんじゃない!」と喝を入れてほしいものです。
第三者と当事者。
その意味をもっとしっかりと考えるべきではないのか。
「当事者主権」という言葉が流行したことがありますが、最近は、多くの人が「当事者」から逃走しだしています。
そのくせ、他者には当事者責任を押し付けます。
そしてもし自らに「当事者責任」が問われそうになると、今度は「第三者」に判断を委ねてしまう。
責任のない当事者などあり得ないことを、なぜ気づかないのか。
私は、責任ある当事者としていきたいと思っています。
そしてそうできることに、幸せを感じています。
社会から責任ある当事者が消失してきていることが、さびしいです。
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