■節子への挽歌4031:孫には時々節子が見えるようです
節子
にこは、わが家に来るとまず節子の位牌に挨拶をします。
ところが今日、位牌の前に節子がいると言い出しました。
そして「ありがとう」と言っているというのです。
にこは、以前から、時々、目が宙を浮いているようなことがあります。
私たちには見えないものが、まるで見えているようなのです。
もしかしたら、大人には見えない彼岸が子どもには見えるのかもしれません。
そういう話はよく聞きます。
いつかもう少し具体的に話を聞きたいものですが、具体的に話せるようになる頃には見えなくなってしまうという話もあります。
前世の記憶も、ほんのわずかな期間にのみ蘇って来るとも言われます。
孫は、生前の節子には会ったことがありません。
写真でしか知らないのですが、写真は結構見分けます。
私には見えないところで、孫が節子と会っているのであれば、それは実にうれしいことです。
いや、そうであってくれたら、どんなにか嬉しいことでしょう。
しかし残念ながら確かめようはありません。
私は娘たちとも友だち関係を目指していましたが、孫ともできればそうなりたいと思っています。
いまはなかなか「いい関係」です。
この子が大きくなるまで、一緒にいられないのが少しさびしいですが、今の節子のように、彼岸からでも付き合えるのであれば、それはそれでまた「いい関係」でしょう。
孫を見ていると、人間の本質が伝わってくるような気もします。
そして、「成長」の意味もなんとなく伝わってきます。
私たちの価値基準はすべて自己(現在)正当化のために間違っているように思えてなりません。
成長とは劣化のことではないか。
孫を見ていると、いつもそう思えてなりません。
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