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2018/09/08

■所有からの解放

先日、ブログを書いていて思い出したことがあります。
無所有を実践していた韓国の法頂禅師の本で読んだバスのなかでの情景です。
内容はよく覚えていなかったのですが、その一文が読みたくて、本を探しました。
幸いに私の書庫に2冊の本が見つかりました。
「無所有」「すべてを捨て去る」です。
昨日、その分を探したくて、粗雑な通読をしました。
しかし見つかりません。

実はこういうことは、私には多いのです。
たしかあの本に乗っていたなと思って、その文章を探すのですが、なかなか見つからないことが多いのです。
一度は、英国と北欧の教育に関する記事のことを思い出して、2週間後にその文章を探すために、その間に読んだ関係ありそうな本を3冊ほど探しましたが、見つかりませんでした。
1冊はほとんど改めて通読したほどでしたが、出会えませんでした。
本での文章との出会いも一期一会なのかもしれません。
気になった時に、書き留めておくことが大切かもしれません。
しかし、その時にはあまり気にならなくても、しばらくしてから急に気になるということもあります。

昨日はあきらめてしまいました。
そうして今朝、その本をしまおうと何気なく裏表紙を見たら、そこになんと気になっていた文章が紹介されていたのです。
探し物は、探すのをやめた時に現われるというのは本当のようです。

早速、その個所を読みました。
こんな文章です。

バスの中であった。 彼は懐から携帯用のナイフを取り出したかと思うと、窓の砕から抜けかけているネジ釘を2つ縮めたのである。 何気なく見ていた私は、人知れず感動した。 彼はこんな風に些細なことで私を揺り動かしたのである。 彼は自分のもの他人のものという分け隔てをしないようであった。 もしかすると全部自分のものだと考えていたのかもしれない。

文中の「彼」とは、法頂さんの道伴の水然和尚のことです。
仲間の僧侶たちからは、慈悲菩薩と呼ばれていた僧侶だそうです。

この文章の最後の2行が、ずっと私の心の中に残っていたのです。
そしてほんの少しですが、私の生き方に影響を与えてくれていたのです。

ところで、この2行を見つけるためにまた2冊の本を拾い読みしたのですが、新しい気付きがありました。
「本来無一物」は、「物」だけの話ではないのではないのか。
そう思ったら、自らの所有欲の強さに気づきました。
特に今年になってまた読書時間が増えてしまっているのですが、知識への所有欲もまた、世界を狭めるのではないかという気付きです。
これまで考えてきたこととは真反対なのですが、知識があることで世界が見えなくなることも少なくないことも事実です。

空海は、虚空蔵とつながっていたという話を聞いたことがあります。
頭の中を空っぽにしたら、虚空蔵にある無限の知識は、すべてが自分のものになるのかもしれません。
もちろん「所有」という囲い込みでも、ネット検索というスタイルでもなくて、です。


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