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2018/09/26

■だれでもスピーチができる場がほしいです

貴乃花はなぜ記者会見をしたのでしょうか。
しかし記者会見できる人は幸せです。
誰にも知られずに、つぶされている人は少なくないでしょう。
また、誰にも知られることなく、忘れられていく「知恵」や「意見」も多いことでしょう。

40年ほど前にロンドンのハイドパークに行った時、そこに「スピーカーズコーナー」があり、誰でもがスピーチできることを知りました。
その時はそこを通り抜けただけですが、その時も一人の人がスピーチしていて、数人の人が立ち止まって聞いていました。
これこそ「公園」だと思いました。

いまはSNSで、だれもがネット上ですが「スピーチ」できるようになりました。
しかしネットのスピーチではなく、やはり今回の貴乃花のように、誰もが思い切り話せる場があるといいなと思います。
それに今回のような記者会見では、貴乃花でさえも素直に話すことはできないでしょう。
見ていて、辛そうな感じでした。
もっと「苦渋の選択」といったおかしな決意なしに、気楽に、しかし誠実に話をする「スピーカーズコーナー」があるといいなと思いました。
選挙で立候補すると社会に向けてスピーチすることが可能になりますが、誰でもができるわけではありません。
時々、駅前で政治家が「朝立ち」をしていますが、私自身はあの活動には批判的です。
政治家ではない人が演説し始めたら、もしかしたら駅からストップをかけられるかもしれません。
政治家であれば、街頭ではなく、きちんと場所を創って、話す(放す)のではなく語る(象る)べきだと思います。
そこにきちんと人が集まってくる仕組みを、努力して育てていくべきです。
そうした場を広げ育てていくのが政治家の大切な役割だと思います。
民主主義は、「広場」から育っていくはずですが、そこにはやはりきちんと「話し合う」場がなければいけません。

記者会見でのスピーチも私はあまり好きではありません。
その場所のガバナンスの問題があるからです。
自由で多様なスピーチは、やはり自由な場で行われないといけません。

ロンドンのハイドパークでスピーチを行った人のなかには、マルクスやジョージ・オーウェル、ウィリアム・モリスといった人もいたそうですが、事前手続きは不要で、誰もが、ほぼあらゆるテーマについて語ることができるのだそうです。
もちろん批判も少なくありません。
それにハイドパークのスピーカーズコーナーですら、制約はあります。

日本でも最近、公園の使用がいろんな面で規制され始めていますが、公園の最大の価値は、そこがコモンズ空間であることではないかと思います。
日本の公共空間は、「公」が強く「共」が弱いので、つまるところ言論の自由ではなく言論の規制の空間になりやすいのですが、それでは市民社会は育ちません。

私が取り組んでいる湯島のサロンも、そうしたものを意識しているのですが、部屋の中でやっていてはどうしても閉鎖的になります。
それに集まりを「企画」する必要があり、企画者や運営者(つまりは主に私のことなのですが)の狭い料簡が紛れ込みやすいです。
投げ銭サロンも一度やってみましたが、その後、希望者は現われません。

もし資金があれば、どこかの開かれた空間を購入して、そこをすべての人に開放して、スピーカーズコーナーを確保したいですが、残念ながら資金的に不可能です。
宝くじを買って当たったらそういう空間を創りたいと思っていましたが、なかなか当たりません。

昨日、貴乃花の記者会見をライブでずっと聞いていて、改めて「誰でもが話せる場」の大切を感じました。ジャーナリストの人たちがその気になれば、そう言う場は作れるはずですが、維持が難しいのでしょう。
金銭面での資産家のどなたかが、3億円くらい出資して、誰もが話せる「アゴラ基金」でも作ってくれるといいのですが、希望者はいないでしょうか。
私がいま積み立てている基金は、時に私が使い込んでしまうので、何しろまだ10万円にも達していないのと、最近は別の用途に使いたくなっているので、何か違う方法を考えないといけません。
いい知恵はないでしょうか。

そうした広場ができるまでは、湯島のサロンは、一種のスピーカーズコーナーとしても考えています。
何か話したい人がいたら、ご連絡ください。
基本的には、誠実な人ならだれにでも開放しています。
場合によっては、ユーチューブ配信などもこれからきちんと考えていこうと思います。

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コメント

民主主義は広場からとおっしゃいますが、そんな欧米の民主主義の沿革を日本でもそのままなぞらねばならないものでしょうか。日本で民主主義が成り立つとしたら、それは寄合や談合や根回しの伝統の上においてのみかと思われます。だいたい「スピーチ」というようなものは英語でするからいいのであって、日本語には不向きです。日本語は静かな所で小人数で話し合うのに適した言語なのですから、政治もそのようになされねばなりません。
誰でもスピーチできる、と言えば聞こえはいいですが、それが誰でもスピーチしないと生きていけない、というふうになったら地獄ですよ。(スピーチすることができるのは、原理上大きな声で臆面もなく話すことができる人間に限られます。しかしそんな人間の立場や言い分は現代社会ではもう十分に尊重せられているのではないでしょうか。)

投稿: 世捨て人 | 2018/09/29 13:25

ありがとうございます。
たしかに「スピーチ」というと「演説」という意味に受け取る人もいますね。

囲炉裏端の話し合いや井戸端会議も含めて,そこに行けば、誰かが聞いてくれるような軽い場を考えています。
湯島は毎週のようにそういう話し合いの場をやっていますが、話したくない人は話す必要はないのですが、ほとんどの人が何らかの話をしてくれます。
話し合いではなく、話に来る人も多いです。
機会があれば一度遊びに来てください。

投稿: 佐藤修 | 2018/09/29 20:43

ご返信ありがとうございました。

なるほどそういう意味でしたか。それなら悪くないかもしれませんね。スピーチというよりは原語のspeechの意味でおっしゃっているわけですね。
たしかに訳しにくい言葉ですが、私なら「語らい」というような日本語にしたい気がします。

湯島は、私の所からは遠いのでなかなか難しいと思いますが、いつかお伺いすることもあるかもしれません。その時はよろしくお願いいたします。

投稿: 世捨て人 | 2018/09/30 00:27

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