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2018年10月

2018/10/31

■カフェサロン「過労死など起こらない働き方の未来を考える」のお誘い

働き方改革が話題になっています。
しかし、その捉え方は人によってさまざまで、「働く人」の視座だけで考えられているわけではありません。
同じ「働き方改革」という言葉で、まったく真逆な目的で語られることさえあります。

日本では、ワーク・ライフ・バランスという言葉がよく使われますが、ワークとライフはむしろ統合されるべきものだという意味で、ワーク・ライフ・インテグレーションという捉え方がアメリカの経営の世界では広がっています。
私は、ライフとワークを同じものだと考えていますので、「働き方改革」は「生き方の見直し」と捉えていますが、今回もできればそういう広がりの中で、「働き方」を話し合えればと思います。

「働き方」に関しては、これまでも湯島のサロンでは取り上げてきましたが、今回はこれまでとはちょっと違った視点で取り上げたいと思います。
1980年代には、人間生活の視点から「仕事論」が広がったことがあり、最近はまたAI(人工知能)の視点からの「仕事論」がありますが、大きな潮流としては、経済活動としての仕事論の域を超えていません。
今回は、できれば、「個人の生き方」や「社会のあり方」にも視野を広げられればと思います。

問題提起して下さるのは、長年、医療や福祉の問題に関わってきた小林康子さんです。
小林さんは、過労死防止活動にも取り組んでいます。
今回は実践活動や生活体験のなからの、小林さんが目指したい「働き方」の未来を話してもらい、それを材料に参加者による話し合いができればと思います。
小林さんからは、次のようなメッセージをもらっています。

「働く者の幸福」とはいかなるものなのでしょうか。
人間の存在を支えるものとは、労働時間規制や実現可能な働き方・働かせ方の良い方向などについて、みなさまの考えが伺えればと思っています。

企業で働く人はもちろんですが、企業とは直接縁のない人にも、ぜひ参加していただきたいと思っています。
「働くこと」は「生きること」と深くつながっていますので。
生き方で悩んでいる人も、ぜひご参加ください。

仕事でメンタルダウンしたり、ましてや過労死したりすることが起こらない社会にしていきたいというのが、今回のサロンを企画した思いです。
みなさんの参加をお待ちしています。

〇日時:2018年11月17日(土曜日)午後2~4時
〇場所:湯島コムケアセンター
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「過労死など起こらない働き方の未来を考える」
〇話題提起者:小林康子さん(東京と神奈川の過労死を考える家族の会世話人)
〇会費:500円
○申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)

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■節子への挽歌4057:セカンドオピニオン

節子
昨日は築地の国立がんセンターの中央病院に行ってきました。
昨年、胃がん手術をした友人がセカンドオピニオンを聞きに行くというので、役には立たないのですが、同行しました。
節子がいなくなってから、「がんセンター」という名前を聞いただけで、気が萎えてしまい、とても病院には行けなくなっていたのですが、今回は東病院ではなく中央病院なのでがんばってみました。
自分でも驚くほどに抵抗がありませんでした。

それになんとなく、予想以上に乾いた感じで、節子と一緒に通っていた頃の雰囲気は感じませんでした。
私の気持のためか、それとも病院という空間の意味合いが変わってきたためか、そのいずれもが関係しているような気がしました。
後者は、病院が無機的な機械的空間になってきていると言いう意味です。

それにしても、セカンドオピニオンを聞きに来ている人がこんなにいるのかと驚きましたが、診察室が10室並んでいて、そこで一人1時間ほど医師と面談するのです。
待合室は満席でした。
考えてみれば全国から来ているのでしょうから、混むのは当然でしょう。

1時間、じっくりと話を聞きました。
もちろん主に話を聞いたのは、友人ですが、隣にいて、いろいろと感ずることがありました。
どんなに親身になって考えようとも、当事者にはなれないと改めて思いました。
節子の時、はたして私は節子と同じ当事者になれていたのだろうか、とふと思いました。

担当した医師は若い医師でしたが、実に誠実で、しかも明快で、CTの写真を見せてくれながら、質問に答え、アドバイスをしてくれました。
セカンドオピニオン制度の意義がよくわかりました。
結果がどうであれ、モヤモヤが消えます。

友人も来てよかったと言っていました。
しかし遠方からの人は大変でしょう。
それに1人では来られない人もいるでしょう。
スカイプなどを活用して、もっと容易にできるような仕組みがあればいいなと思いました。
もちろん直接会うことによって、納得度が高まる効果は大きいですが、広い情報を聞くだけで自分の症状の受け止め方はかなり違ってくる気がします。

終わった後、喫茶店で話しましたが、彼は「がんと付き合うしか仕方がないのだ」と何回も声に出していました。
自分に言い聞かせているその言葉に、私は無力感を強く感じました。
そして節子のことを思い出しました。
あの頃、私は無力感さえ持てずにいました。
いろいろと思い出せられる1日になりました。

それにしても、病院はなぜか疲れる空間です。
友人はかなり疲れたでしょう。
同行しただけの私も、なぜか疲れました。
彼には、私の葬儀に出てもらわなければいけないので、私より長生きしてほしいのです。
私の友人たちには、私よりも早く逝ってほしくはありません。
自分より先に逝きそうなので、お前とは付き合いたくないと、ある友人から言われたことがありますが、その気持ちはよくわかります。

昨夜はまた眠れませんでした。

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2018/10/30

■節子への挽歌4056:人は一人では生きていけません

節子
人は一人では生きていけません。
そのことを、節子がいなくなってから痛感しました。しかし、人はなぜか、一人で生きようとする。
以前は私もそうだったかもしれませんが、節子がいなくなってから、その大変さがわかりました。
一人で生きていくことには、どこか無理がある。
そんな気がします。

湯島には、ひとりで生きようとしている人がよく来ます。
もちろん本人はそうは思っていないでしょうが、私にはそう見えて仕方がない。
昨日もそう言う人と長いこと話していました。
しかし鎧は脱ごうとしない。
もしかしたら鎧を着ていることさえ気づいていないのかもしれません。

今日は、小学校時代の友人に付き合って、築地のがんセンターに行きます。
セカンドオピニオンを聞きに行くのです、
彼は独身を通し、いまも独り暮らしですが、胃がんの手術をしたのです。
その後、抗がん剤で副作用が出たりしています。
それで、セカンドオピニオンを聞くことになったのです。
彼は、ひとりで大丈夫だとずっと言っていましたが、昨日電話したら、やはり同行したほうがよさそうです。
それで同行することにしました。
私が同行したところで、何の役にも立ちません。
しかし、隣に私がいるだけでも精神的には少し安心できるでしょう。

人が一人で生きられないと思うのは、名にも何か大きな力になってほしいとかそんなことではありません。
ただそこに居るだけでいい。
そのことの意味を、節子は教えてくれました。
ただそこに居るだけで役に立つのであれば、私にもできることです。
そして、それこそがとても大切なことなのだろうと、この頃、考えるようになりました。

がんセンターに行くのは、正直に言えば、とても不安なのです。
あの頃のことを思い出さないとは限らない。
しかし、私の隣には友人がいる。
一人ではないので大丈夫でしょう。

私が同行することを知った共通の友人がメールしてきました。
ちゃんと靴を履いていくように、と。
余計なお世話ですが、従うことにしました。

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2018/10/29

■節子への挽歌4055:時の速さは驚くほどです

節子
時間の早さには驚きます。
またあっという間に、挽歌が2週間以上も滞ってしまいました。
すごい速さで時間は過ぎていく。

時間論に関しては、真木悠介さんの「時間の比較社会学」という、とても面白い本があります。
古い本ですが、そこに、時間は昔は「自分のもの」だったのに、今は自分が「時間のもの」になってしまっているということが書かれています。
各自のものだった「時」が、すべての人に共通のものとなり、時計ができて、しかもその時計を各自が腕につけて忠実にその規制を受けるようになったというわけです。
個人にとって価値のある「物」や「文化」が、やはり貨幣という、すべての人にとっての共通価値で捉えられるようになったのと同じことです。
私は腕時計をしませんが、それはせめて「時」くらいは自分のものにしておきたいという、叶わぬ無意識な思いがそうさせているのかもしれないと、その本を読んだ時に思ったものです。
いまは貨幣からも解放されたいと思っていますが、なかなかうまくいきません。

節子がいなくなってからと節子がいた頃と、多分、「時間」の意味は私にはまったく違ってしまいました。
その時の進み方を、時計などで規制されたくはないのですが、やはりそこから抜け出すのは難しい。
それにしても、挽歌をもう2週間以上書かないでいたということはにわかには信じられない。

いまもなお、私には空白の時間があるのかもしれません。
またしばらくはがんばって、追いつこうと思います。
そういうところに、私にも近代人の本性が残っているのでしょう。

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■カフェサロン「『ホモ・デウス』が予告する政治の未来と民主主義」のお誘い

今回は最近話題になっている書籍『ホモ・デウス』を材料に取り上げて、ヒューマニズムやデモクラシーの未来を話し合いたいと思います。
リンカーンクラブとCWSコモンズ村の共催です。

『ホモ・デウス』は、『サピエンス全史』につづく、ユヴァル・ノア・ハリスの著書ですが、その第3部「ホモ・サピエンスによる制御が不能になる」で問題提起されている、「AIと政治制度」に焦点を合わせた話し合いにしたいと思います。
したがって、基本的には、『ホモ・デウス』の下巻の第3部だけでも読んで参加してもらえればと思います。
しかし、読書の嫌いな人もいるでしょうから、以下にそのエッセンスは紹介します。

たとえば著者はこんなことを書いています。

「18世紀には、人間至上主義が世界観を神中心から人間中心に変えることで、神を主役から外した。近代以降の歴史を、科学と特定の宗教(人間至上主義)が手を組み、「人間の経験が宇宙に意味を与える」と信じながら、力を手に入れていくプロセスだった」
「21世紀には、データ至上主義が世界観を人間中心からデータ中心に変えることで、人間を主役から外すかもしれない」
「人間至上主義に取って代わるものとして最も有力なのは、人間ではなくデータをあらゆる意味と権威の源泉とするデータ至上主義だ」

「人間からアルゴリズムへと権限がいったん移ってしまえば、人間至上主義のプロジェクトは意味を失うかもしれない」
「人間中心の世界観(ヒューマニズム)を捨てて、データ中心の世界観をいったん受け容れたなら、人間の健康や幸福の重要性は霞んでしまうかもしれない」

ここには2つのメッセージがあります。
①AI(人工知能)がヒューマニズムを無意味なものにし、人権概念を変質させるのではないか。
②民主主義政治はデータベースのAI政治に取って代られるのではないか。
両者は密接につながっていると思います。
ちなみに、これはさらに経済の変質にもつながりますが、今回は政治に焦点を合わせます。
つまり、今回のテーマは、「AIは人間の存在価値を失わせ、民主主義を基本にしたこれまでに政治制度を壊していくのだろうか」ということです。

同書にはこんな記述もあります。
問題の背景を共有するために、引用しておきます。
「テクノロジーの発展によって人間は経済的にも軍事的にも無用になるという脅威は、自由主義が哲学的なレベルで間違っているという証明にはならないが、実際問題としては、民主主義や自由市場などの自由主義の制度がそのような打撃を生き延びられるとは思いにくい」(p133)
「今日の民主主義の構造では、肝心なデータの収集と処理が間に合わず、たいていの有権者は適切な意見を持つほど生物学や人工頭脳学を理解していない。したがって、従来の民主主義政治はさまざまな出来事を制御できなくなりつつあり、将来の有意義なビジョンを私たちに示すことができないでいる。一般の有権者は、民主主義のメカニズムはもう自分たちに権限を与えてくれないと感じ始めている」(p218)
「新しい構造は、民主主義でも独裁制でもなく、以前の政治制度とはまったく異なるかもしれない」(p221)

著者によれば、人類はいま挑戦を受けているわけです。
自らが生み出した者たちに。
挑戦は受けて立たねばいけません。
というわけでもこんなサロンを企画しました。
みなさんの参加をお待ちします。

〇日時:2018年11月18日(日曜日)午後2時~4時半
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「『ホモ・デウス』が予告する政治の未来と民主主義」
〇進め方:今回は特に問題提起者は決めませんが、最初に少しだけテーマの確認をしてから自由な話し合いにします。
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)

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2018/10/28

■安田純平さんに心から感謝します

シリアで消息を絶っていたジャーナリストの安田純平さんが、2018年10月に無事帰国しました。
久し振りの、とてもうれしいニュースです。
しかし、さまざまなバッシングが行なわれていて、テレビの報道を見ていて、哀しくなるというよりも、実にいやな気分になります。
昨日も多くのテレビで、コメンテーターやキャスターのほとんどが、私には極めて不快な発言をしていました。
そういう人たち(たとえば北野たけしさんですが)の名前も出したいほどですが、きりがないのでやめることにします。
しかし、この人がと思うような人が、私には聞くに堪えない発言をしていて、驚きます。

その根底に感ずるのは、弱い者いじめと国や政府の視座です。
つまり、全体の方針に従わない者は、いじめられ、保護されないということです。
学校でも会社でも、地域でも、そして家庭でさえ、そういう風潮は広がってきているような気がします。
それは私の生活にも無縁ではありません。
国の方針に逆らう人は殺されてもいいというところにつながっているように思います。
そもそも国境を越えて移動することにおかしさを感じない近代人は、私には理解できません。

昨日のテレビでは、安田さんは目的に失敗したという人もいました。
しかし、安田さんが明らかにしてくれたことは、私にはたくさんあります。
ジャーナリストは、記事だけで情報を発信しているわけではありません。
安田さんが書いたであろう記事や動画よりも、私には大きなものが伝わってきています。
書かれたり撮られたりしたものだけで、ジャーナリストは情報発信しているわけではありません。
もちろん受け身でしか物事を考えていない人には伝わらないでしょうが、そうしたものの背景にこそ、私は価値を感じます。
安田さんの今回の不幸な事件は、決して無駄ではありませんし、無駄にしてはいけないと思います。

身代金も話題にされています。
もし身代金に私の税金の一部が使われたとしても異論は全くありませんし、むしろうれしいです。
オリンピックに使われるよりも、私には価値のあることですから。
それに、人の生命をお金とつなげて語る人たちは、私には唾棄すべき存在です。
念のために言えば、身代金が使われたかどうか、またそれをだれが負担したかどうかなど、私は知りませんし、身代金支払いを肯定しているわけでもありません。
そうではなく、こんな時でさえ、お金の話ばかりする人たちの気が知れないのです。

こう書くとまた反論が来ると思いますが、せっかくのうれしいニュースが、なぜか後味の悪いニュースになってしまっているのが、ともかく残念です。

私は、安田さんの勇気と志と実践に感謝しています。
そして、安田さんが無事帰国されたことに、無条件に喜びを表明したい。
安田さんを非難する人も、安田さんほどの「自己責任」意識を持ってもらえるといいのですが。
他者に自己責任を求める前に、まずは自らの自己責任を考えてほしいものです。


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2018/10/27

■ちょっとゆるいカフェサロン「ナチュラリストが見る社会の危うさ、あるいは自然界の面白さ」のお誘い

前回はかなりハードなサロンでしたが、今回はちょっとゆるいサロンのご案内です。
前から一度お話をお聴きしたいと思っていたナチュラリストの木村幸一郎さんにサロンをお願いしました。
私が「ナチュラリスト」と言う言葉を聞いたのは、もう今から15年以上前のような気がします。
友人にナチュラリストがいると、友人が教えてくれたのですが、「ナチュラリスト」という言葉の響きに魅了されて、ぜひ紹介してほしいと言ってお会いしたのが木村さんでした。
そして、木村さんから、ナチュラリストとは何かを教えてもらったのです。
その時は、あまり具体的な活動に関してはお聞きできなかったのですが、ずっと気になっていました。
私たちの共通の友人は若くして急逝したため、木村さんとの付き合いも少し遠のいていました。
しかし、最近また湯島に時々顔を出してくれます。
それで、今回長年の夢をかなえてもらい、サロンを開催してもらうことになったのです。

木村さんは、いまは「ハイパー・ナチュラリスト」=「自然系何でも屋」として、行政、企業、専門学校、NPO等、幅広く講演や講座、イベント企画・運営活動などされていますが、「自然系何でも屋」ですから、実にミクロなことからマクロなことまで、話題には事欠きません。
それに、自然からいまの時代や社会を見ていると、人間社会の中から見ているのとはかなり違う景色が見えているのだろうと思います。
どんな話をしてもらおうか迷ったのですが、基調に「自然との付き合いのなかから見えている社会の危うさ」のようなものを置いて、私たちの生き方につながるようなお話や、私たちにはまったく気づいていないような博物誌的なお話もしてもらおうかと思っています。
多分そうしたお話のなから、私たちには見えないことが見えてくるような気がします。
それに加えて、私には木村さんの生き方(ナチュラリストの人生)も興味があるので、そのあたりも聞かせてもらいたいと思っています。

自然に関心のある人はもちろんですが、自然と縁のない生き方をしている人にもぜひ参加してほしいサロンです。
新しい気付きのある、楽しいサロンになること請け合いです。

○日時:2018年11月11日(日曜日)午後2時~4時
○場所:湯島コンセプトワークショップ
東京の湯島天神のすぐ前です。
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
○テーマ:「ナチュラリストが見る社会の危うさ、あるいは自然界の面白さ」
○話題提供者:木村幸一郎さん(ハイパー・ナチュラリスト)
○会費:500円
○申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)

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■ハロウィンよりもお盆でしょう

ハロウィンで世間はにぎわっているようです。
私の地元でも、友人が長年近隣の家庭で楽しむハロウィンのイベントをやっています。
私が住んでいるところからはちょっとだけ離れているので、それを知ったのは今年のはじめでした。
商業主義ではない、そういう活動が広がってきていることには異論はありません。
私の孫も、何やら魔女の服装をして喜んでいましたし。

しかしながらやはり違和感があります。
ハロウィンの起源であるケルトと日本文化のつながりの話もとても興味深くあるのですが、渋谷の仮装イベントにはいささかの嫌悪感さえあります。

死者との交流ということで言えば、日本にも「お盆」や「お彼岸」があります。
日本の伝統行事も、最近いささか商業化しつつあるのを感じますが、それはともかく、大事にしたいと思っています。
そこに、私の生き方の根っこを感ずるからです。
ハロウィンを批判するつもりは全くありませんが(バレンタインには極めて拒否的ですが)、日本の仏教を生きる拠り所としている私としては、お盆をもっと楽しいものにしたいです。

昨今の日本人の生き方がちょっと乱れてきていて、社会におかしな風潮が広がりだしているのは、やはり「宗教」や「信仰」がないがしろにされてきているためではないかと思っています。
日本には、たくさんのお寺や神社があります。
そうしたところがその気になれば、社会のあり方や人々の生き方を変えていけるはずです。
寺社による祭事は、人々の生き方に大きな影響を与えます。
祭事を、ショービジネスやイベントビジネスと勘違いしてはいけません。
祭事は、あくまでも祭事なのです。
そうした取り組みがあまり感じられないのですが、寺社の人たちは何を考えているのでしょうか。

もっとも、いまのような人の生き方や社会のあり方がいいという人もいるのでしょう。
しかし、私には、いまの社会はどうも自分が生きる社会から遠のいているような気がしてなりません。

私は祭事は「子育て」「人育て」という教育の仕組みでもあると考えています。
子どもを育てるのは、学校だけではありません。
そして、社会には子ども育て人を育てる仕組みが内在されていたように思います。
文化人類学に取り組む人たちの本を時々読みますが、そうした本を読むたびに、そう言うことを感じます。
同時に、人類は滅びに向かって進んでいるような気がします。

半年ほど前に読んだ奥野克巳さんの「ありがとうもごめんなさいもいらない森の民」(亜紀書房)で紹介されているボルネオのプナンの人たちの話はとても感動的でした。
この週末は湯島のサロンがないので、ちょっと古いですが、アマゾンの奥地で暮らしているピダハンを紹介した「ピダハン」(D・L・エヴェレット著)を読もうと思います。
本の紹介文には、ピダハンの人たちは無神論と書かれていますが、そんなはずはないでしょう。
たぶんキリスト教徒の基準で神を論じているために、無神論に見えるのではないかと思います。
まあそれを確かめたくて読むのですが。
ちなみに著者はキリスト教の布教活動のためにピダハンと共に暮らし始めて、結局、自らが棄教したと、これも本の紹介に書かれていました。

余計なことまで書いてしまいました。
11月22日に、ちょっと遅れていた「宗教」シリーズのサロンを企画しています。

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2018/10/26

■カフェサロン「地方政治の現場から考える日本の政治の未来」報告

「女子高生」、正確には「女・子・高・生」つまり「女性・子ども(若者)・高齢者・生活者」が政治を変えていくというテーマのサロンは、自治体の女性議員3人を含め、16人とにぎやかなサロンになりました。
河野さんは、これまでもそうした「女・子・高・生」の活躍できる場づくりにも取り組んできていますが、それは、地元宇部での実践活動の中で体験的に女性や若者のパワーを実感し、経験的に「女・子・高・生」への期待が高まったそうで、最近はやりの「女性活用の発想」などとは全く違ったものだと、話の中でも強調されていました。
最近の女性活用などの掛け声は、政治のみならず経済の分野でも広がっていますし、制度面での整備は進んでいますが、上滑りなものも多く、実体はむしろ逆行ではないかと思うようなものもありますが、河野さんは実践からの提案なので、私にはとても安心して聴ける話でした。

直接的・具体的に話すというよりも、聴く人に考えさせるのが河野さんのスタイルなので、今回もさまざまな話を含ませながら、さまざまな示唆を出してもらったように思います。

参加者の中には、30年以上前から女性議員を増やす活動に取り組んでいる松戸市の市会議員の中田さんをはじめ、市議や県議として今の政治を変えていこうと健闘されている2人の女性議員たちも参加して下さっていましたが、そのみなさんの話を聴く限りでは、残念ながらまだまだ「昭和の男性」たちが中心になっている地方政治の現実は変わってきたとは言えないようです。

横浜市の行政職員の方が参加して下さっていましたが、市長が女性になったら変わってきたというお話がありました。
そういう意味では、女性議員が増えたり、首長に女性がついたりすることが、政治を変えていくことにつながっていくことはたしかです。
しかし、河野さんの住んでいる宇部市も女性市長ですが、首長だけでは限界があるようです。
それに関しては、首都圏などの大都市部と地方とでは住民意識も違い、地方の政治体質はまだまだ変わっていないという話もありました。
たしかに首長の力は大きいですが、それだけでは政治は変わらないでしょう。
「住民視点の政治」や「生活のための政治」を目指すのであれば、変わるべきは政治家ではなく、住民の政治意識(生活意識)でなければいけません。
その意味で、まずは議会で女性が活躍できる状況をつくりだすことが不可欠です。
しかし、そのためにも、住民の意識や行動が変わっていく必要がある。
それは同時に、「政治」をどう捉えるかという問題につながります。

今回のサロンにも女性の方が数名参加してくださいましたが、ひとりの方(いわゆる「専業主婦」の方)が、河野さんの話の後の話し合いは、自分が期待していたようなものではなかったという素直な感想を述べてくれました。
湯島では時々政治をテーマにしたサロンを開催していますが、男性が語る政治と女性が語る政治は、まったく視点が違うような気がします。
男性はすぐに安全保障とか財政赤字を話題にしがちですが、女性は生活の不安や家計の心配を問題にします。
いずれも大事な問題で、深くつながっていますが、視点が全く違うのです。
権力や統治という視点から考えるか、個人の尊厳や生活という視点で考えるかで、政治はまったく別のものになります。
サロンの翌日、湯島に別件で来た女性は、昨日のサロンに参加しようかどうか直前まで迷っていたのだが、やはり参加しなかったと言いました。
たぶん、男性の政治論議になるので自分には居場所がないだろうと思ったのでしょう。
そうしたことにこそ、やはり日本の「政治」の問題があるような気がします。

河野さんのメッセージには、「生活者」も主役の一つに挙げられています。
これに関しても「生活者」とは誰なのかという指摘もありました。
「生活者」という概念はかなり古くからありますが、「消費者」と違ってなかなか定着しません。
この議論は今回はあまり深入りしませんでしたが、一度、このテーマでサロンをしようと思いました。
「生活者」という言葉は、経世済民とつながるもので、経済の変質を考える上でもとても重要な切り口です。
同じように、政治の世界もまた、生活とのつながりがとても重要だろうと思います。
政治家は、政治家である前に、生活者でなければいけません。
戦争が起こったら、自らが戦場に行く気概で、あるいはオリンピックの予算が増えたら自分の家計から補てんしていくくらいの責任感をもって、つまり自らの生活とつなげて、憲法論議やオリンピック招致、あるいは海外援助をしてほしいです。
あまりに税金を気楽に使っているので、税金は「取られている」という気にさえなってしまいます。
首長や議員と行政職員の関係も少し話題になりました。
それも含めて、議員と住民の関係や首長と議員の関係、さらには地方議員と国会議員(政党)の関係など、政治のあり方を考える上では、そうした関係のあり方を考え直す必要があるように思います。

ほかにもいろいろと話題はでましたが、サロンですので、いろんなところに飛び火して、にぎやかな話し合いになりました。
政治や戦争に関するボードゲームの話にまでなりました。

河野さんは、これから自分の考えを実践に移していくことを考えています。
今回は、それをどう進めていくかも少し話してくれました。
その進め方は、住民たちが話し合いながら、「女・子・高・生」のエネルギーを地方議会に顕在化させていこうという「運動型」の活動です。
政治は「プロセス」だと考えている私としてはとても共感できます。
政治は「国会」や「地方議会」の中にあるのではありません。
生活の場での日常生活の中にこそある。
日本の野党は、それを軽視しているために国民の意見を力にできずにいます。
政治の構図の捉え方を変えていくべき時期だろうと思います。

河野さんのプロジェクトがどう展開していくか、とても期待しています。
具体化したらまた差しさわりのない範囲で紹介したいと思いますので、みなさんにもぜひ関心を持ってもらい、もし共感できたら、応援してもらえればうれしいです。
宇部市民でなくても応援する方法はたくさんあります。
それも今回参加された中田さんから教えてもらいました。

ちなみに、今回のサロンには、河野さんが宇部市民であることを知って、宇部出身者が2人も参加しました。
宇部の人たちは、政治意識(郷土意識〉が高いことに感心しました。
私も一時、少しだけ関わらせてもらいましたが、改めて宇部市が好きになりました。

また長い報告になってしまいましたが、政治は私たちの生活の土台です。
しばらく開いていない「茶色の朝」シリーズのサロンも11月に開催したいと思っています。
Kawano181024


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2018/10/25

■節子への挽歌4054:会わなくても一緒に生きている人はいる

節子
昨日はたくさんの人に会いました。

昼間はお名前だけは何回も聞いていた人に2人会いました。
ある企業の顧問をされている方たちです。
先方も私のことを知っていて、そのおかげで初対面の気がしませんでした。
不思議なもので、会う前からお互いに相手のことをなんとなく知っている気分があったのでしょう。

夜は、湯島でサロンでしたが、今度は久しぶりの人が2人、やってきました。
いずれも20年以上の久しぶりです。
ひとりは山口の河野さん。
節子と一緒に山口に行った時に、河野さんにはとてもお世話になりました。
なぜ山口に行ったのか思い出せないのですが、河野さんにご馳走になったことだけは覚えています。
私は記憶力が悪く、あるシーンを断片的にしか思い出せないのですが、夫婦ペアの萩焼をもらった記憶もあります。
もうひとりは松戸の中田さんです。
彼女が湯島に来たのは、25年ぶりだそうです。
彼女の伴侶は有名な政治学者ですが、その著書は私が民主主義のことを最初に考えるようになった本でした。
リンカーンクラブという活動の中でお会いし、その流れで、彼女が湯島に来てくれたのです。
以来、緩やかな交流がつづいていました。

河野さんと中田さんとは、ほとんどこの間、会うこともなかったのですが、会ったとたんに最後に会った時に戻って、その間の長い時間は、まるでなかったような気がします。

最初のおふたりは、会ったこともないのに、私の中には存在していましたし、後の2人は特に交流がないにもかかわらず、私の中では生き生きと生きています。
人のつながりは、とても不思議なもので、会うとか会わないとかはあまり関係ないのかもしれないという気さえします。

節子とはもう11年会っていませんが、こう考えると、それがどうしたという気にもなります。
今日は久しぶりの秋晴れのようです。
今日もまた、湯島に、名前さえ知らずはじめて会う人、最近知り合った人、30年以上前からずっとお付き合いのある人という3組の人がやってきます。
どんな一日になるのでしょうか。

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2018/10/23

■節子への挽歌4053:“late”

節子
サイードの「晩年のスタイル」を読みました。
「晩年」というタイトルに魅かれたわけではなく、先日読んだ評論集に少し刺激を受けて、この有名な著作を手に取ってみたわけです。
それに、サイードという人にも関心がありましたから。

原書のタイトルは「ON LATE STYLE」です。
つまり、「晩年」は「LATE」の訳です。
この本は、サイードが亡くなった後に、友人のマイケル・ウッドが編集したのですが、ウッドが書いている序論にこんなような説明がありました。

lateという単語は、約束を守れなかったという意味〔「遅刻」〕から自然循環の一時期という意味〔「遅い」「後期」「晩期」〕を経て、消滅した生命という意味〔「亡き」「故」〕まで多岐にわたる。

彼も書いていますが、lateといえば、まずは、「遅れる」という意味、時間を守らなかったという意味を思い浮かべます。
しかし、夕方遅くlate eveningとか、遅咲きlate blossomとか、晩秋late autumnという表現もあると言います。
さらに、lateには、「亡き人」「故人」という意味もあるそうです。

ウッドは書いています。

死んだ人びとは、たしかに、時間を超えたところに行ってしまったとはいえ、私たちが死者について「late」と呼ぶことのなかに、いかなる複雑な時間的願望が潜んでいるのだろうか。lateなるものは、時間との単純な関係を名指しているのではない。それはいつも時間を引きずっている。それは時間を想起する方法である。

とても納得できます。
節子は、約束を守らずに、生命を終えました。
時間が前にだけすすむのであれば、「遅れた」わけではないのですが、今から逆に思えば、ある意味での「遅れた」行為でした。
そして、節子は今なお、私にとっては、「時間を想起する方法」なのです。
死者は、たぶん節子に限らず、永遠に「時間を引きずっている」存在です。

「晩年のスタイル」の本旨とは違ったところに引っかかってしまい、この本を読むのは時間がかかってしまいました。
しかもどうもピンときませんでした。
むしろこの本は、若い時期に読むべきだったかなと思っています。
あまりに広くて深い世界が展開されているので、圧倒されて、ついていけません。
それにカミユが軽く扱われているのも、ちょっとひっかかってしまいました。
若い時にカミユの「異邦人」に衝撃を受けたものとしては、何か自分が全否定されたような気にもなってしまいました。
しかし冷静に考えると、サイードの指摘のほうが納得できるような気もします。

節子がいたら、もう少し違った世界に入れたかもしれません。
いまにして思えば、まさにちょっと“late”な気がしますが。

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2018/10/22

■カフェサロン「『子どもNPO白書2018』を刊行して」報告

日本子どもNPOセンターが出版した「子どもNPO白書2018」をテーマに、執筆者の交流会もかねてのサロンを開催しました。
白書に関しては、既に紹介させてもらいました。
http://cws.c.ooco.jp/books.htm#180923

今回は、白書の編集代表でもある日本子どもNPOセンター理事長の小木さんが名古屋から参加、大坂からも日本こども未来研究所所長の川野さんも参加してくれました。
日本子どもNPOセンターのメンバーでない人も数名参加し、総勢15人ほどになりました。
社会保障を専門にされている本間先生も参加してくれました。
東京新聞の飯田さんも取材に来てくれました。
編集委員の金さんは子連れ参加で、場の雰囲気も変わりました。
異分野の人ができるだけ接点を持つというのが湯島の精神ですので、うれしいことです。

私も白書は読ませてもらいましたが、さまざまなところでさまざまな活動が行われているのがよくわかります。
子どもたちは、大人と同じように、さまざまな問題の絡み合いの中で生きています。
子どもが生きているのは、決して「子どもの世界」ではありません。
無防備な子どもたちこそ、社会全体の縮図を体現しながら生きている面がある。
ですから、子どもの世界からは大人たちの社会の実相がよく見えてきます。
子どもの世界に現れている問題は、実は大人の問題の写し絵でもあり、そこから私たち大人の生き方が鋭く問われているわけです。

同時に、子どもの世界だけを見ていると見えなくなってしまうことも少なくありません。
今回の白書では、子どもたちを取り巻く法的環境の変化がていねいに解説されています。
それは、子どもたちにとっては逆風の流れのように思いますが、その流れに抗うためにも、あるいは新しい流れを創りだしていくためにも、さまざまな現場の人たちが横につながっていくとともに、実践者と研究者とのつながりがますます大切になってきています。
これだけさまざまな現場で実践している人たちがつながって、研究者と一緒になって動き出せば、法的環境を能動的に変えていけるように思います。
いやそれこそがNPOの大きな使命ではないかと改めて思いました。
この白書の継続的な出版活動は、そうしたつながりを育てる場にもなっていくでしょう。
実践者たちの交流や問題をシェアしあう場が、もっともっと必要だと話し合いを聞いていて感じました。

もう一つ感じたのは、白書もそうなのですが、総じて「大人の視点」で語られていることです。
もっと子供たちが主役として登場してほしい。
子どもたちを語るのではなく、子どもたちの思いを聞きたい。
私は障害のある人や高齢者の問題にもささやかに関わらせてもらっていますが、当事者とそれを支援する人の見ている世界はかなり違うのが、いつも気になっています。
そもそも支援するという一方向的な活動ではなく、お互いに学び合っていくことが必要ですが、子どもから学ぶことは山のようにあるはずです。
子どもたちは何を困っているのか、そうしたことをもっと聞きたかった気がします。

話し合いではいくつかの話題が出ました。
たとえば、福祉と教育の関係、あるいはNPOと行政の関係。
また「地域施設」という領域の立て方の是非も議論されました。
いずれも湯島のサロンで時々話題になるテーマですが、子どもの視点で、そうした課題を話し合うことは大切です。

もう一つの大きな課題は、この白書をどうやって社会に広げていくか、言い換えればたくさんの人たちに購入してもらうか、です。
読んでもらって何かの行動につながっていくことが白書の目的です。
どうしたら広げられるかについても、いろんな意見が出されました。
みなさんも、もしよかったら購入して読んでみてください。
そしてできればまわりの人たちに紹介していただければ嬉しいです。
湯島でも購入できるようになりましたので、読んでみようという方がいたら、湯島に来た時に声をかけてください。

せっかくの機会なので、私もいくつか提案させてもらいました。
たとえば「子どもNPOラウンドテーブル会議の発足」です。
執筆者である、領域を超えたたくさんの実践者や研究者たちが、子どもたちが置かれている現状の問題を可視化し、公開フォーラムのスタイルで、ぜひ社会に発信していってほしいと思います。
そして、さまざまな立場の人を巻き込んで、時には子どもたちも巻き込みながら、全国各地で定期的に公開のラウンドテーブル会議を展開し、問題を解決していく実践につなげていく。
それは同時に、大人や高齢者も含めて、みんなが住みやすい社会になることにつながっていくでしょう。
子ども世界は大人の社会の写し絵なのですから。

子どもたちの直接の声を社会にしっかりと伝えていく活動も必要です。
NPO活動の一つの落とし穴は、問題の当事者と問題解決を支援するNPO関係者との思いが「ずれていくこと」です。
問題を観察者的あるいは支援者的に捉えるのではなく、当事者(この場合は子どもたちですが)と一緒に活動していく。
白書でもそうした事例はいくつか紹介されていますし、最近そうした活動も増えていますが、子どもたちがいまの社会を、あるいは今の大人たちの生き方を、どう見ているのかは、必ずしも社会に発信されていないように思います。
子どもたちが見ている社会の姿を、私たちはもっと学ばなければいけません。
これは子どもに限りません。
高齢者も障害のある人たちにも、すべてに言えることです。

日本子どもNPOセンターの「白書活動」の価値を、改めて実感したサロンでした。
書店や図書館に注文したりして、ぜひみなさんも、この白書の存在を広げていってください。
子どもたちの育ち方が、私たちの未来を方向づけていくのですから。

報告というよりも、思いを書きすぎてしまいました。
すみません。
引き続き、具体的なテーマについてのサロンもやってみたい気がします。
どなたか問題提起したい方がいたらご連絡ください。


Kodomo181021


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2018/10/21

■第3回有機野菜の旬を楽しむ会の報告

霜里農場金子友子さん主催の「有機野菜の旬を楽しむ会」も3回目になりました。
今回は、この1年間、霜里農場で実習し、来月福岡に帰る「たなちゃん」こと棚町弘一郎さんがゲストで、棚町さんの新たな門出の祝いを兼ねての、「たなちゃん送別会サロン」でした。
そのおかげで、たなちゃん世代の若い人たちがたくさん参加してくれ、いつもとは違う雰囲気でした。
旬の有機野菜は「枝豆」。
「枝豆」ということもあって、参加者からビールの差し入れもありました。

最初に、たなちゃんから、なぜ農業を志したのか、そしてなぜ実習の場所が霜里農場だったかの話があり、それから福岡に戻ってからの活動の構想が紹介されました。
たなちゃん手作りの紙芝居的イラストを使っての話は、とても共感できるものでした。

たなちゃんは作物科学というのを大学で専攻したそうですが、そこでいくつかの疑問にぶつかったようです。
そして自分は研究ではなく実際の農業の現場で活動しゆと決断したそうです。
その背景にはたなちゃんの生き方に関わる3つの信条がありました。
「自然を大切にすること」「人の役に立つこと」「身近な人を大切にすること」です。
もしかしたら、いまの農業は自然を壊しているのかもしれません。
しかし、自然を豊かにする農の営みもあるはずです。
それがたなちゃんの思いだったようです。
また「農業」を通して、みんなの、特に身近な人の役に立ちたいと思っているたなちゃんは、農業への取り組みがその地域全体を豊かにすることにつながっていけばいいなと思っています。
ですから、霜里農場のように、そこから地域全体に広がっていくスタイルに、たなちゃんは惚れ込んだわけです。
そこで霜里農場での1年間の実習を決めたそうです。
こうしたたなちゃんの生き方に私はとても共感しました。

福岡に帰ってどうするか。
まずは引き続きもう少し有機農業を地元で学ぶそうですが、並行して福岡市の郊外に自分の農場をつくるそうです。
場所も大体決まっていて、室見川の上流の、まだあまり有機農業が行なわれていないところのようです。
その場所を選んだ理由もとても共感できるものでした。
そして、3つのことをやりたいと話しました。
「寺小屋」「引き売り」「室見川流域の生活つなぎ」です。
内容は省略しますが、これは私が理想としている構想にも通じますので、とても感心しました。

何やらとても明るい未来を感ずる話でした。
それにたなちゃんを応援する若者たちもみんな農業に関心を持っているようで、とても元気をもらえました。

枝豆を味わう前に、少しだけ話し合いをしました。
いろんな話がありましたが、「有機野菜」の対語が「慣行野菜」だと知りました。
私は「有機野菜」や「有機農業」という言葉に違和感がありますが、「慣行野菜」という言葉には拒否感を持ちました。
ネットで調べたら、化学肥料を主に使って栽培した野菜を「慣行野菜」というようです。
化学肥料を使用するのが「慣行」?
一体どうなっているのでしょうか。
どう考えてもおかしい。
日本の農の営みは、自然との循環の中で、土や自然とともにあったはずです。
化学物質で土を殺し、野菜を追いやる農は断じて日本の「慣行」ではなかったはずです。
そうした用語を許している農業関係者にがっかりしました。
たなちゃんの話に元気をもらったはずが、そのことで一挙に元気を失いました。
ここから少し怒りを感じて、草取りが大変だなどという考えを捨てようとか機械を使っても有機農業といえるのかなどと、ついつい暴言を吐いてしまいました。
あとでたぶん友子さんに叱られるでしょう。

それはそれとして、たなちゃんのこれからの活動が楽しみです。
たなちゃんの友人で、短期間ですが、やはり霜里農場で実習した田中さんが、実家でつくっているという無農薬のリンゴを持ってきてくれました。
私も食べさせてもらいましたが、彼も農家を継ぐ思いがあるようです。
無農薬のリンゴ。
その彼も、後で「皆さんの前で話せるような立派な農家になれるように頑張ります!」とメールをくれました。
また元気になれました。

とてもいいサロンでした。
農業は、いや正確には、「農の営み」は、人を誠実にし、素直にし、元気にしてくれることを改めて確信しました。

たなちゃんのこれからの活動が楽しみです。


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2018/10/20

■節子への挽歌4052:またパピルスが来ました

節子
すぎの農園に行って、梨の王秋を買ってきました。
待っている間に庭の端を見たら、あんまり見たこともない、しかし何となく見覚えもある花が咲いていました。
これはなんですかと訊きましたが、どうも花の類いは奥さんの担当らしく、奥さん不在のため杉野さんには答はもらえませんでした。
それで何となくわが家にも咲かせたくなって、少し分けてくれませんかと頼んでしまいました。
息子さんが大きなシャベルを持ってきて、袋に入れてくれました。
なんだか節子が乗り移ったような気がしました。

節子は、どこかの庭に気に入った花があると厚かましくも、もらってきたものです。
前にも書きましたが、一度は、自動車で湯河原を走っている時に見事な庭を見つけて、庭を見せてもらいたいと頼んで庭を案内してもらいました。
その挙句に花をもらってきました。
数年、わが家の玄関で咲いていましたが、節子がいなくなってから、うっかりして枯らせてしまいました。
そんな節子の生き方が、私にも乗り移ってしまったようです。

その花のとなりに、立派なパピルスが育っていました。
杉野さんがこのパピルスは強いので放っておいて育つ、もっていきますか、と言ってくれました。
ねがったりもない話で、少し株分けをしてもらいました。
パピルスは私も大好きなのですが、これまでも何回かチャレンジしたのですが、うまく育てられませんでした。
今回はがんばって育てようと思います。

杉野さんたちの暮らしぶりを見ると、本当に幸せそうです。
節子もたぶん、あんな暮らし方をしたかったのではないかと思います。
杉野さんのところにうかがうと、いつもそんな気がします。


20181019


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2018/10/18

■国家の本質

サウジアラビアのジャーナリスト、ジャマル・カショギさんがトルコ・イスタンブールのサウジ総領事館を訪問後に失踪した事件で、サウジアラビア国家政府による殺害の可能性が報道されています。
この事件を、とんでもない事件と思うか、常識的な事件と思うかは、国家をどう捉えるかで別れるでしょう。
私は、ある意味で、国家による「コラテラル・ダメッジ」として、驚くほどのことのない事件だと思っています。
http://cws.c.ooco.jp/katudoubannku2.htm#1013
ただこうしてそれが、あまりにもはっきりと報道されると恐ろしくもなりますが、そもそも国家とはそういう存在なのではないかと思います。それを改めて思い知らされる事件だろうと思います。
ただやり方がお粗末で、殺害の仕方が異常だったとはいえますが、もしかしたら、むしろこういうやり方こそが、巧妙なやり方なのかもしれません。
いずれにしろ、そこからのメッセージは大きいです。
国家というものを考え直す、いい材料かもしれません。
しかし、この事件を、イスラムと結びつけることだけは避けなければいけません。
ひとりの生命が失われたという意味では、最近日本でも起こった官僚の自殺と同じです。

国家による「犯罪」は、犯罪とはされません。
国家防衛のための正当化が与えられるのです。
その最たるものが「戦争」です。
そして、そのために暴力装置としての軍隊を持つことの危険性を認識しなければいけません。
国家の軍隊の戦力が主にどこに向けられていたかは、歴史が示唆しています。

国家は、国民を守るための仕組みと言われますが、国民を守るためには、多少の犠牲は認めらます。
それがコラテラル・ダメッジの論理ですが、国民は守られても個人は守られないという、おかしな話がそこにあります。
「守る対象」があいまいですから、いかようにも論理は組み立てられるでしょう。
軍隊は、一体「何」を守るのか。
私が守られている時にはいいですが、いつ、守るために排除される立場になるかに関しては、私は関与できません。
サウジの国家と国民を守るために活動してきたカショギさんは、排除される立場になってしまったわけです。

ここで国家政府の意思決定の透明性や国民の参画が大きなテーマになります。
しかし、それもまた問題がないわけではありません。
そこで出てくるのが、人間を単一のデータ処理システムとして捉えてAIに意思決定させるというアイデアです。
今朝のNHKテレビに、最近話題の「ホモ・デウス」の著者、ユヴァル・ノア・ハリスさんが出ていました。
彼の問題提起はとてもわかりやすく、システムと人間との闘争においては、人間には勝ち目がないという指摘もとても説得力があります。
しかし、私はやはり、20世紀人として、システムも国家も、個人を支えるものであってほしいと思っています。
もし、「ホモ・デウス」になるのであれば、私は取り残される立場になりたいと思っています。

「ホモ・デウス」のサロンも企画したいと思っています。
一応、読了した人(できれば前作の「サピエンス全史」も)を対象にしたいと思っていますが、5人以上、参加者がいたら開催したいです。
ご関心のある方はご連絡ください。

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2018/10/17

■節子への挽歌4051:人生の向う方向

節子
今年もいろんな人が新米を送ってくれます。
季節が変わったのを実感します。
新米が届くと、なんだか新しい年が始まるような気もします。

最近畑に行かなくなってしまいました。
台風で悲惨な状況になったので手入れに行かねばいけないのですが、雨が多かったり早くから湯島に行かねばいけなかったりで、さぼっているのです。
挽歌もそうですが、人は習慣を破ると、ついついその快適さに引き込まれてしまいます。
生きつづけるということもそうなのかもしれません。

昔、誰かが通学や通勤の時、反対方向の電車に乗ってみたら人生は変わるのではないかというようなことを書いていました。
その頃は共感しましたが、やったことはありませんでした。
会社を辞めた後、箱根の小涌園のホテルで合宿した時、朝東京に戻る予定だったのですが、そのことを思い出して、帰りのバスを反対方向に乗りました。
たぶん挽歌でも書いたと思いますが、人生は変わりませんでした。
まあ、地球は丸いですから、地上での方向の違いなど瑣末なのかもしれません。

昨日は1日、在宅でした。
ちょっと疲れたので予定を変えてしまったのです。
生き方の向きもちょっと変えたくなったのですが、それはなかなか難しい。
一昨日、自宅で使っているパソコンが突然クラッシュして、動かなくなってしまいました。
その時に、ふと、もうパソコンもやめて、生き方を変えようかと一瞬思いました。
しかし、2時間後、なぜかパソコンが動き出しました。
それでその一瞬の思いは、消えてしまいました。
宮沢賢治を思い出さなければいけません。

今日はまた3日前までの生き方に戻ります。
そこに困った人がいれば、出かけなければいけません。

彼岸には、困った人などいないのでしょうか。

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2018/10/16

■節子への挽歌4050:信条のジレンマ

また挽歌が書けなくなりました。
時間破産を理由にしていますが、もちろんそんなのは口実です。
私の体験では、時間がないと言っている人ほど時間があります。
これまで「忙しい」と言っている人で、時間がない人に会ったことはありません。
「忙しい」とは「心を亡くすこと」と言われますが、ないのは時間ではなく意志なのです。
私もこの1週間、挽歌を書く意志がどこかに行ってしまっていました。
いや「意志」というと、これもまた不正確です。
書こうと思う意志はあるのですが、書く意志が起きてこない。
まあ節子は、こういう私をよく知っているので、仕方ないかと赦してくれているでしょう。

この1週間、無駄な時間の使い方をしています。
湯島に行かなくてもいいので、わざわざ友人を呼びだして、それらしいミーティングをしたり、読まなくてもいい本を探し出してきて読み直してみたり、まあ暇をつくらないようにしていますが、いずれも自分で創りだしている用事なのです。
そのくせ、1か月までにやっておかなければいけない宿題は放置しています。
その気になれば30分もあればできることです。
やらなければ約束を破ったことになり、私の信条に反しますが、やろうという気が起きないのですから仕方がありません。
困ったものですが、やる気が起こらないのにやるのは、これもまた信条に反します。
信条には優先順序をつけておかないと、こういうジレンマが起きますが、優先順序をつけることもまた、私の信条に反しかねないのでややこしいのです。

今日は1日、何もしないで過ごしました。
何もしないわけではなく、テレビを見たり本を読んだり、来客の対応をしたり、フェイスブックに少しだけコメントしたり、メールの返事を出したり、まあちょこちょこ動いていましたが、何もしていなかったの同じ空虚な1日でした。
それに寒い1日でした。

最近どうもこういう日が増えてきました。
こうやって人は世間から離脱していくのでしょうか。
明日はまた世間に舞い戻っての1日になるでしょう。

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2018/10/15

■企業サロン「企業の〈インターナルコミュニケーション〉を考える」報告

〈インターナルコミュニケーション〉をテーマにした企業サロンは15人参加のにぎやかなサロンになりました。
最初に、清水正道さん(CCI研究所代表・日本広報学会前理事長)から、これから発表しようとしている「インターナルコミュニケーション経営(IC経営)」の紹介をしてもらい、つづいて大企業と中小企業、それぞれについて数社の事例発表をしてもらいました。
パワーポイントを使用しての体系的なお話を要約するのは難しいので、近いうちに当日のサロンの映像記録を公開するようにします。
また当日清水さんが使用したパワーポイントですが、10月28日に開催される日本広報学会シンポジウムで報告発表後、関心のある人にはデータを提供して下さるそうです。
ご希望の方は、CCI研究所代表・清水正道さん宛に、ご自分のメールアドレスを連絡すると、29日以降に清水さんからデータを送って下さるとのことです。
メールアドレスは、tactico@nifty.com です。
したがって清水さんのお話はそれをぜひご覧ください。

話し合いはまたいつものようにいろいろと広がりました。
清水さんは「インナーコミュニケーション」と「インターナルコミュニケーション」の違いも含めて、最初に注意すべき2点を指摘しました。
まずそもそも「インナー」とは「内面」というような「自分自身とのコミュニケーション」という意味がありますので、違う概念であること。
そして、インターナルという場合、インとアウターの境界(バウンダリー)をどこに置くかが重要な問題であることです。
特に、インターナルコミュニケーションを考える時の視野をどこまで包摂していくかは、コミュニケーションにとっての本質的な問題です。
参加者の椎原さんは、最近は「コミュニケーション」ではなく「リレーション」の視点から考えるようにしていると話されました。
私自身は、さらに一歩進んで、そこから新しい価値が生まれるという意味で「コラボレーション」の視点を大事にするべきだと考えています。

IC活動あるいはIC経営を進めることで、どういう価値あるいは目的が達成されるのかという質問も出ました。
いうまでもなく組織のパフォーマンスが上がるということでしょうが、そのパフォーマンスの捉え方がいま大きな岐路にあるように思います。
そういう意味では、コミュニケーションの問題は実は組織論の問題になって行くはずです。
ティール組織や企業規模の問題にも少し話が広がりました。

組織で働く人の話も出ました。
そもそも組織のメンバーが、最近は主体的に思考し主体的に動くということができにくくなっているのではないかという話にもなりました。
私自身はそこにこそ現在の企業のコミュニケーション問題の本質があるように思います。
自分で考えて主体的に行動する人どうしで行われるコミュニケーションか、それとも指示に従って動くだけの情報伝達型のコミュニケーションかによっては、その意味も方法も全く違ってきます。
同じ「コミュニケーション」という言葉を使いながら、それは全く違うもののように思えます。
言い換えれば「機械的コミュニケーション」か「人間的コミュニケーション」かと言ってもいいでしょう。
ここまで来ると、経営そのものの話になってきて、その流れで、組織論やモチベーション論、さらにはCSRの話も出ました。

大企業と中小企業の事例が紹介されましたが、参加者からは規模によってIC経営のスタイルは違ってくるのではないかという指摘もありました。
しかし、仮にそうだとすれば、用語を変える必要があるでしょう。

コミュニケーション問題は長年の組織活動に於ける重要課題です。
一番問題なのは、「コミュニケーション」をどう捉えるかということではないかと思いますが、IC経営の提案が、そうした視点をぜひ出してほしいと期待しています。

今回のサロンでも話題になったいくつかの企業の事例を題材にして、具体的なサロンをまた企画したいと思っています。

Shimizu20181014_2


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■信頼し合って支え合う関係をシェアするコミュニティづくりへ

湯島のサロンからまたひとつプロジェクトが生まれつつあります。
それもかなり湯島のサロンのビジョンにつながるプロジェクトです。
湯島のサロンは、最初オープンサロンから始まりましたが、途中からもう一つの活動のコムケアサロンと合流しました。
コムケアサロンは、コムケア活動の一環として始めたものでしたが、コムケアはコミュニティケアの略でした。
住友生命から委託されたNPOへの資金助成プログラムの一貫でしたが、当時、日本では「コミュニティケア」は「施設福祉から地域福祉へ」、それもその背景に福祉財政削減の意図を感じました。
そうした潮流への反発もあって、あえて「コミュニティケア」という言葉を使用しました。

ビジョンは、「大きな福祉」を目指す「共創型相互支援」ネットワークづくりでした。
その構想は、住友生命の関係者の全面的な支援を受けて、自由に取り組ませてもらいましたが、私がいささか活動にのめり込みすぎて体調を崩したこともあり、頓挫してしまいました。
その精神をコンセプトワークショップの活動として、いま引き継いでいます。
今のビジョンは、コミュニティケアではなく、ケアコミュニティです。
これに関しては、ブログなどで書いたことがありますが、取り組む気力が萎えたままでした。

今回のプロジェクトは、その時のことを思い出させてもらうようなものです。
これまで3回ほどやった「安心して死を迎えられる生き方」をテーマにしたサロンのなかから、思いをシェアした人たちで、ゆるやかなコミュニティづくりに取り組もうということになったのです。
私も参加させてもらいました。
その1回目のキックオフミーティングが昨日開かれました。
私も含めて9人の人が参加しました。
みんな、ご自分の活動をされていたり、取り組みたい活動を持っていたりする人たちです。
全体として目指す方向のたたき台を話し合った後、それぞれの活動や思いが披瀝されました。
その中で、それぞれができることも紹介されました。

まだゆるやかでゆる~いコミュニティですが、具体的な事業にも(それぞれが中心になって)取り組みながら、コミュニティを実体化させていくことになりました。
さまざまなタレントがつながっていくことで、 “ゆりかごから墓場、そして死後の世界まで”をつなげたコミュニティが育っていくといいなと、私は勝手に期待しています。
家族や地域や組織の“縁”とはまた違った、“第4の縁”を育てていきたいという、このプロジェクトのきっかけをつくってくれた中下さんの思いも、ぜひ実現したいと思います。
関心のある人はご連絡ください。
このコミュニティも、ゆっくりと広げていく予定です。

Lsc20181014


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2018/10/11

■かなりハードなカフェサロン「近代国家幻想を考える」報告

台風で一週間伸びましたが、湯島初の「かなりハードなカフェサロン」を開催しました。
テーマは、「近代国家幻想を考える」。
話題提供者は柴崎明さん。
参加者は、いずれも一家言ある難しそうな人たち6人と平均人の私の7人。
柴崎さんは、トランクいっぱいの書籍を持参しました。
それで「ハードカフェ」の雰囲気は整いました。

柴崎さんの話は経済人類学のポランニーと古事記の神話から始まりました。
そして、フロイト、フーコー、ラカンなどの話を経由して、国家幻想に関する話へと広がり、近代国家を超えるものへの問題提起で終わりました。
間奏曲として、柴崎さんが地元で調べた地域の神様の話はとても面白かったですが、それと国家幻想とは深くつながっているような気がします。

「幻想」は、与えられた幻想と生まれてきた幻想があります。
地域の神様は、そこで住んでいる人たちの生活の中から生まれてきた共同幻想の象徴であり、そこからコミュニティやアソシエーションが育っていきます。
一方、近代国家は、そうした幻想を上手く利用しながら、もっと強力な幻想を創りだし、それをそこで住んでいる人たちに与えていきます。
草の根的に生まれ育った地域社会の幻想は、そうした大きな幻想に絡め取られ、地域の神様は国家の神様や宗教教団の神様に敗退していき、従属させられていく。
それが近代の大きな流れだったような気がします。

さらに、2つの神が両立しないように、国家体制は一元化されていく。
それを見事に達成したのが、明治政府かもしれません。
こうなると、ここで先の「宗教サロン」ともつながっていく。
そんな気がします。

あんまりサロンの要約報告にはなっていないような気がします。
映像記録をユーチュブでアップしますので、関心のある方はそれをご覧ください。

ちなみに、この柴崎サロンシリーズは不定期に開催します。
なにしろ柴崎さんの頭の中にある知識と論考は、一度くらいでは引きだせませんので。

Shibasaki181007_2


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2018/10/10

■節子への挽歌4049:善い人は神さまはきちんと助けてくれる

節子
また挽歌をさぼってしまっています。
人生はなかなかうまくいきません。
すっきりしない日が続いています。
もちろんうれしい話もあります。

一昨日、何とはなしに湯島に相談に来た人がいます。
ちょっと遠いところに住んでいるので、東京に出てくるたびに時間調整しているのですが、なかなか合わず、ようやく会えたのです。
彼女はいつも何か食べ物や飲み物を持ってきます。
それも必ず3人分です。
そして私と2人でそれを食べて、余った一つを置いていくのです。
彼女は経済的には私よりも厳しい状況にあり、しかも11月中にいま住んでいる家を退去しなければいけないほど追いつめられているはずですが、まったくめげていません。
ですから持ってくるものもお金がない時は食べかけのチョコレートだったりします。
でもいつも何か持ってくるのです。
いまお金があれば、ポンと彼女に提供したいところですが、節子が残したお金は全部なくなってしまいましたので、そういうわけにもいきません。
ですから何の役にも立てず、せいぜいが雑談相手になれるくらいです。
でもまあ雑談しながら頭を整理するお手伝いはできるかもしれません。

彼女にとっての選択肢は、今3つです。
しかしいずれもよほどの幸運がなければ11月には間に合いません。
でもまあ、彼女はめげる様子もなく、帰っていきました。
しかも、何かお手伝いすることがあればやりますとさえ言いながら。
私が言ったのではなく、彼女が言ったのです。
念のため。
もちろん彼女は手伝ったからと言って、対価などは全く考えていない人です。
彼女もまた、私と同じでお天道様に守られているのです。

ところがです。
私と会って帰宅した夜から、事態がどんどんいい方向に動き出したのだそうです。
思ってもいなかったことです。
2人で話して、理想的な選択肢だと合意した方向に、まわりが動き出したのです。
その動きは翌日も続いて、なにやら11月以降ホームレスになるどころか、彼女のビジョン通りに動き出しそうあのです。
善い人は神さまはきちんと助けてくれるのです。

彼女はいいとして、私もきちんとお天道様に従って、それなりに「善い生」を過ごしているつもりですが、あんまりいいことが最近ありません。
それどころか、小さなことではありますが、心にひっかかることが周りで頻発していて、憂鬱なことが多いのです。
でもまあ彼女のことを知って、もうじき私にも光がまわってくるだろうと思いながら、今日は溜まっていた宿題をこなし始めました。

だんだん勢いがついてきたところに、電話がかかってきました。
昨日から何回も電話してもかからなかった人からです。
それもちょっと気が萎えていることだったのですが、電話に出た途端に、一方的に思いもかけない言葉が飛び込んできました。
それも、なにやら怒っているのです。
よく聞くとどうも「八つ当たり」なのです。
かなり興奮していて、私までもが理由もなく怒られてしまいました。
その人は、この2か月ほど、私どころではない「不運」に見舞われていたのです。
私と同世代の人ですが、多分八つ当たりする人がいなかったのでしょう。
せっかく調子が出そうだったのに、八つ当たりを受けて、ちょっと気が抜けてしまいました。
私が抱えている宿題の内の4つが、その人に直接間接に関わっていることだからです。
昔の私なら、「はい、さようなら」となったかもしれませんが、最近の私は成長したので、最後に「八つ当たりしたくなったらいつでも受けますよ」といいました。
もちろん皮肉などではありません。
素直にそう思っているからです。
怒りのやり場のない人の八つ当たりは誰かが受けないといけません。

人生はうまくいかないものです。
だからこそ、人生は豊かなのですが。
でも疲れます。
最近は毎日栄養ドリンク剤を飲んでいますが、一向に疲れが抜けません。
困ったものです。

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■ちょっとゆるいカフェサロン「ナチュラリストが見る社会の危うさ、あるいは自然界の面白さ」のお誘い

今回はちょっとゆるいサロンのご案内です。
前から一度お話をお聴きしたいと思っていたナチュラリストの木村幸一郎さんにサロンをお願いしました。
私が「ナチュラリスト」と言う言葉を聞いたのは、もう今から15年以上前のような気がします。
友人にナチュラリストがいると、友人が教えてくれたのですが、「ナチュラリスト」という言葉の響きに魅了されて、ぜひ紹介してほしいと言ってお会いしたのが木村さんでした。
そして、木村さんから、ナチュラリストとは何かを教えてもらったのです。
その時は、あまり具体的な活動に関してはお聞きできなかったのですが、ずっと気になっていました。
私たちの共通の友人は若くして急逝したため、木村さんとの付き合いも少し遠のいていました。
しかし、最近また湯島に時々顔を出してくれます。
それで、今回長年の夢をかなえてもらい、サロンを開催してもらうことになったのです。

木村さんは、いまは「ハイパー・ナチュラリスト」=「自然系何でも屋」として、行政、企業、専門学校、NPO等、幅広く講演や講座、イベント企画・運営活動などされていますが、「自然系何でも屋」ですから、実にミクロなことからマクロなことまで、話題には事欠きません。
それに、自然からいまの時代や社会を見ていると、人間社会の中から見ているのとはかなり違う景色が見えているのだろうと思います。
どんな話をしてもらおうか迷ったのですが、基調に「自然との付き合いのなかから見えている社会の危うさ」のようなものを置いて、私たちの生き方につながるようなお話や、私たちにはまったく気づいていないような博物誌的なお話もしてもらおうかと思っています。
多分そうしたお話のなから、私たちには見えないことが見えてくるような気がします。
それに加えて、私には木村さんの生き方(ナチュラリストの人生)も興味があるので、そのあたりも聞かせてもらいたいと思っています。

自然に関心のある人はもちろんですが、自然と縁のない生き方をしている人にもぜひ参加してほしいサロンです。
新しい気付きのある、楽しいサロンになること請け合いです。

○日時:2018年11月11日(日曜日)午後2時~4時
○場所:湯島コンセプトワークショップ
東京の湯島天神のすぐ前です。
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
○テーマ:「ナチュラリストが見る社会の危うさ、あるいは自然界の面白さ」
○話題提供者:木村幸一郎さん(ハイパー・ナチュラリスト)
○会費:500円
○申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)

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2018/10/09

■ブック「日本列島「法」改造論(阿部泰隆 第一法規 3000円)のご紹介

本書は、「逆転の発想による法改革」によって日本を変えるための処方箋です。
というと何やら難しそうですが、普通に生活している人であれば、誰でも「ふんふん」とうなずきながら楽しく読める処方箋が満載された本です。
「漫談」的な要素も込められていて、読者はあきることがありません。

著者の阿部さんは、私の大学時代の友人ですが、毒舌・名言でも有名な、そして具体的な提案活動もしっかりとしている、曲がったことの嫌いな、国士的な学者です。
時に、阿部さんは「変人」とも評されますが、ご自分は「変人」を「変革の人」と読み替えて、変人であることを受け入れています。
「政策法学」という新しい分野の創始者で、その分野でもたくさんの専門書を書いています。

「政策法学」というのは、現在問題となっている法制度を具体的に取り上げ、その立法政策的な改善策を提言する学問だそうです。
公共政策にもつながる具体的な提言や問題提起につながる実践法学と言ってもいいでしょう。
法学というと、私には敷居が高いですが、それであれば私にも関心があります。
というか、その姿勢は、「法とは何か」という、私の基本的な関心課題につながっていますので、まさに私の関心事でもあります。

ちなみに、私自身は、最近「法」というものに、ほとんど関心を失ってきています。
私が法学部で学んだのは「リーガルマインド(法の精神)」ですが、その視点で考えると、最近の法には「心」があるのかと、つい思ってしまうのです。
日本はほんとうに法治国家なのだろうかという疑問さえ、時に感じます。

そんな私のような世捨て人的なひねくれた姿勢ではなく、現実に果敢に取り組んでいるのが、阿部さんです。
専門書を書くかたわら、阿部さんがさまざまなところで発表してきた、日本社会を覆いだしている病魔の法的処方箋の集大成が本書です。
本書の帯に「病魔に苛まれている法と政策を蘇生させよ Dr.阿部の執刀開始!」と書かれていますが、その快刀乱麻ぶりは、時にはちょっと共感できないものもありますが、そこにこそ、本書の真価があります。
誰もが違和感なく読めるようなものは、読む価値も聴く価値もありません。

阿部さんは、日本の法律学に関して、こんなことも書いています。

法律学では、そもそも、「疑え」という研究方針や指導方針がないと感ずる。
判例通説を整理せよ、外国法を整理せよ、そしてまとめよというものが多い。
そこから新学説は出てくるが、それでも、新規の考え方は少ない。

まったくもって同感です。
そして阿部さんは言います。

筆者は、法律家として、日本の法制度がうまくいっているのか、不備をどうすれば改善できるのかを念頭に、何事にも疑問{?}を持って、半世紀以上研究してきた。

こうした視点で、まとめられたのが本書です。
もう少し阿部さんの言葉を引用させてもらいます。

そして、問題を発見したら、解決策としては、通り一遍ではなく、逆転の発想で、あるいは、一手しか読まないのではなく、せめて二手読むとか、二者択一ではなく、合理的な中間案をつくるとか、あるいは強行着陸ではなくソフトランディングを試みるというものである。
このような研究は、法学界では前例がない新しい道を開拓してきたもので、いまだ十分な評価はされていない(それどころか、四面楚歌かもしれない)が、これこそが日本の法学者の使命であると信じている。

どうですか。法律嫌いの人も、ちょっと読みたくなるでしょう。
目次だけでも15頁もあるほど、Dr.阿部の手術のメスは、社会すべてに向けられています。
第1章は「国会・内閣・裁判所のありかた」。つづけて「社会問題・国民生活」「税制改革」「医療福祉」「環境保護」「大学」「その他身辺雑記」と広い分野にわたって論が展開されています。
しかも、そこには、与党独裁体制を許さない法システム、「国旗国歌は作り直せ」とか「オリンピックは無駄」とか、祝日も休日にするな(来年の10連休は大反対)、「命を大切にせず、医療費を無駄使いする厚労省」、さらには「バカほど儲かる医師・弁護士システム」、未亡人の再婚を邪魔する遺族年金、文科省は廃止せよなどといったことが書かれています。
Dr.阿部の、快刀乱麻ぶりがわかるでしょう。

できれば、まずは「はじめに」を読んでもらい、後は関心事に合わせて拾い読みしてもらうのがいいと思います。
「はじめに」に、阿部さんの生き方がわかる文章があるので、引用させてもらいます。

社会科学者仲間では、福島の原発事故にもかかわらず相変わらず「原子力村」で、原発は安全であるという枠内の研究をしたり、阪神・淡路大震災や東日本大震災が身近に起きても我関せず、自分の「学問」に没頭したり、広島原爆の被災地にいながら、被爆者に寄り添うことなく、平和な学問をして偉くなっている人が少なくない。
筆者には、彼らは民の苦しみなど知る余地もないように見える。(中略)
筆者の専攻の行政法学関係者は、役所からお座敷がかかるので、どうしても役所寄りの発想になりがちである。

そうだそうだ!と拍手したいです。
阿部さんの人柄がかなり伝わってくるでしょう。
彼自身は、「とうの昔に御用学者を総撤退し、大学にも縁がないので、「しがらみ」がなく、文科省批判も含め、信念に従った発言をしている」と言っています。
まあ、しがらみがあっても発言してきたと思いますが(そのために社会の主流派から外されたと本人は言っています)。

ちょっと高価なのが気にいりませんが、現代日本の「法的欠陥事典」と考えれば我慢できそうです。
しかし、個々の問題の処方だけが本書のメッセージではありません。
「逆転の発想」で頑固な法律さえも、活かし方が変わってくること。「学問」とは何か、学ぶとは何か、社会をよくしていくためにできることは何か、などということへのヒントも、その気になれば読み取れます。
アジテーションも含意されているかもしれません。
これを読んだ読者が、身近な病魔にDr.阿部流の執刀作業を始めると、日本ももっと住みやすくなるかもしれません。
法の精神が蘇ってくるかもしれません。
ですから本書は、ある意味で、Dr.阿部の執刀術学習講座でもあるのです。

多くの人に読んでもらい、多くの人に執刀をはじめてほしい。
そんな意味で、本書を推薦します。

ちなみに、Dr.阿部の湯島サロンを10月12日の夜開催します。
まだ少し余席があります。
参加ご希望の方は私あて、ご連絡ください。
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2018/10/08

■節子への挽歌4048:神の助力は必要か

節子
4世紀のローマの異端のキリスト教徒ペラギウスは、人間が神の助力を受けることなしに善を行い完全な存在になることができる、と主張したそうです。
正確に言えば、そう言う考えだったから、「異端」とされているわけですが、彼が人は神によって完全に創られたと考えたのは、神への信仰が強かったからにほかなりません。
神が不完全な者を創りだすと考えるのは、神を信じていないことにつながるはずです。
私もどちらかといえば、そうですが、そこに悩ましい問題がある。

しかし、問題は「完全」とは何かということなのかもしれません。
言語矛盾ですが、欠陥もまた「完全」の要素の一つかもしれない。
そんな気がしてきています。
人生もまた、完全な人生などあるはずもない。
でも「お天道様の世界」は、きっと完全でしょう。
そして私は、その世界の一部ですから、完全の一部として、完全な存在なのです。
ややこしい話ですみません。

この2日間、ちょっとまたサロンに深入りしすぎて、思考力が枯れてしまい、挽歌を書く気力まで失っていました。
同じような繰り返しをどうしてもしてしまう。
適度ということがなかなかできないのです。
困ったものです。

私は、ペラギウスのように考え抜いた結果ではありませんが、「人間が神の助力を受けることなしに善を行い完全な存在になることができる」ということは、共感できます。
昨日、サロンの合間に4人で食事をしながら、性善か性悪かの話になりました。
この世に、性悪のものなどあるはずがない。
しかし残念ながら誰にも賛成してもらえませんでした。
善か悪か。
そもそもこの問い自体が、間違っているのでしょう。
悪もまた、大きな世界にとっては善なのだろうと思います。
存在するものには、すべて意味がある。

それにしても、人の心は弱い者です。
まあ私の場合は、どうも意志も弱いのですが。
「やれない」のには、意味がある、とすぐに言い訳を見つけてしまう。
しかし、その1日が終わりそうになると、やらなかったことで、罪悪感におそわれてしまう。
最近、やるべきことがどうもできないのです。
やはり「神の助け」は必要なのでしょうか。
そんなはずはないはずなのですが。

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■消費することも「仕事」です

昨日、「個人と組織の関係を考える研究会」でした。
さまざまな分野で活動している人たちで始めた研究会ですが、いまはそのシーズン2で、会社を切り口にして話し合っています。
昨日のいろんな話題が出ましたが、その一つが「AIによって人間の仕事がなくなっていくことと高齢者の増加」が話題になりました。
たまたま昨夜、NHKテレビの「マネー・ワールド」で、AIによって仕事が激減することとベーシックインカムが話題にされていました。
ベーシックインカムも、昨日の研究会やサロンでも話題になったことです。

これに関しての私の考えは、極めて明快なのですが、なぜかほかの人が語っているのを聞いたことがありません。
昨日の研究会でも話しましたが、多分冗談だと思われてスルーされています。
しかし、たぶん間違いないでしょう。
遅くも30年後には常識になっているでしょう。

それは「仕事」の捉え方が変わるということです。
ブログでは何回も書いていますが、私の仕事観からすれば、今でも地方にはたくさんの仕事があります。
昨日もこれも発言しましたが、まだ受け入れられませんでした。
私が実行しだしてから30年ですので、多分これは間もなく受け入れられるでしょう。
AIが発達してきたおかげで、私の仕事観はようやくリアリティを持ってきました。
簡単に言えば、「消費」も「仕事」だということです。
何だそんなことはわかりきっていると言われそうですが、まだまだ「仕事」とはお金をもらうことだと考えている人がほとんどですから、「消費も仕事」という時の「仕事」は、私の捉え方とは違っていると思います。
会社を辞めた直後に、日本能率協会の雑誌に「脱構築する企業経営」という連載をしました。
そこで「生産」と「消費」はコインの裏表と書きましたが、その頃はまだ経済の捉え方が私にはできていませんでした。
しかし会社を辞めて30年近く、報酬と仕事は別のものという働き方をしてきたおかげで、ようやく確信が持ててきました。
消費も立派な生産的な仕事なのです。
生産と消費は対立語ではなく、消費は生産のサブシステムであり、消費によって生産は完結するのです(さらにいえば、循環させるための「還元」も必要ですが)。
生産とは金銭を得ることではなく、価値を創りだすことなのです。

AIが人のする仕事を奪うようになってきたので、このことがわかりやすくなってきました。
AIと共存できる仕事、それが「消費」なのです。
いくら生産しても、消費する人がいないと、経済は動きません。
セイが言うような、供給が需要を創りだす「物不足時代」は終わりだしています。
現に日本では今、供給力過剰で、実体経済が停滞し、「失われた30年」がつづいています。
その事態を打破するのは簡単で、お金をばらまいて、消費したいのにできないでいる人たちに「消費する仕事」に取り組んでもらえばいいのです。
つまり景気対策としてのベーシックインカムです。

長くなってしまったので、もうやめますが、「消費することは生産を助ける経済的な仕事」なのです。
「働き方改革」ではなく「仕事の捉え方改革」をする段階に来ました。

それで、私も、今年の春にフェイスブックで予告していた新しい仕事を始めることにしました。
その新しい仕事は、お金を持っている人の代わりにお金を使ってやる仕事です。
但し、そうむやみに引き受けるわけではありません。
いまのところ、最低で3億円以上で、消費する料金は1~2割。

お金を燃すだけでもいいというお客様の場合は費用はかなり高目の特別料金になります。
社会的な価値はあるかもしれませんが、仕事としては面白くないからです。
各地にお金を落として回るというのは、各地の観光旅行でできるので、料金は少し安くなります。
生活に困っている人に喜んでもらえる施設づくりの場合は、料金はとても安くなります。

ブラックなお金は引き受けられませんし、使用目的は私が納得するものでなければ引き受けません。
詳しい仕事募集の案内は、間もなく始める予定です。
上手くいけば、同業者が増えるかもしれません。
AIたちもきっと喜んでくれるでしょう。

そしてその先どうなるか。
それもサロンなどでは話していますが、あんまり真剣には聞いてもらえません。
しかし、きっとそうなるでしょう。
私にはちょっと悩ましい問題が、それによって発生するのですが。

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2018/10/07

■カフェサロン「自閉症児を受容し親になる」報告

松永さんのサロンも、今回で3回目です。
今回のテーマは、これまでの難病の子どもと違って「自閉症児」。
松永さんの世界は、どんどん広くなり深くなり、メッセージの普遍性が強まってきています。
今回は、最近出版した「発達障害に生まれて - 自閉症児と母の17年」の勇太君母子のことを中心に、これまでの2作品にも言及されながら、そしてご自身の思いも込められながら、お話をしてくださいました。
キーワードは「受容」と「普通」。
松永さんのお話は映像記録していますので、関心のある人はご連絡ください。

「受容」に関しては、キューブラー・ロスの「死の受容の5段階」に即しながら、「受容」のプロセスとその過程でどういうことが創発されるのかを話してくれました。
そして、「死」ではなく「生」の場合は、最後の段階の「受容」こそが、始まりなのだとして、「生の受容の5段階」(私の勝手な命名です)松永モデルを紹介してくれました。
このモデルは、これからきっと松永さんによって深化していくでしょうが、とても示唆に富んでいます。

「普通」に関しては、具体的なエピソードによって「普通という呪縛」を気づかせてくれました。
もしかしたら、「普通呪縛」によって、私たちは「発達障害」などの「異常化」を進めているのかもしれません。
今の時代は、「ちょっと変わった子ども」はいなくなってしまっているのかもしれません。
実は昨日、別のサロンで、引きこもり問題に関わっている人から、最近は不登校の子供が薬を飲まされて薬害が問題になっているという恐ろしい話も聞きました。
「普通呪縛」からどうしたら自由になれるのか。
松永さんのお話には、健常者の脳を捨てることが大切という指摘もありましたが、健常であることと普通であることとは同じなのか、そしてそういう言葉に果たして実体はあるのだろうかというようなことを思いました。

松永さんは、障害者が幸福に生きる条件を2つあげました。
「居場所をつくること」と「自立と共生」です。
居場所は物理的な場所というよりも、人との出会い、社会に関わっていくこと。
自立と共生とは、お互いに支え合っている言葉であることを理解すること。
とても示唆に富んでいる指摘だと思います。
ちなみに、イヴァン・イリイチという人は「コンヴィヴィアリティ」という言葉で、以前から「自立共生」をワンセットで捉えています。

ほかにも、心に残った言葉はたくさんあります。
いくつかを羅列します。
子どもにとって親の存在が安全基地になる。
人に助けを求めることが社会とのつながりを育ていく。
会話が成り立たなくとも信頼関係や愛は育てられる。
条件なしの愛と条件付きの愛の話も紹介したいですが、書きだしたらこれまたきりがなさそうです。

最後に、これは松永さんが以前から話されていることですが、「不幸を最小化する」社会にも言及されました。
「不幸を最小化する」社会を実現するためには、「最も弱い者(高齢者、新生児、障害者など)を守り、多様性を認め、共生することが大切だが、しかし現実は…」といって、勇太君の母親のブログに書きこまれたあるコメントを紹介してくれました。
それはこんなコメントです。
「やはり知的障害者の教育に我々の血税を費やすよりも本当に勉強したくても経済的事由で学校に行けない健常者にその税金を回すべきです」
とても哀しいコメントです。
このコメントを紹介した後、松永さんは、オスプレイの写真を見せながら、「血税」ってなんだと強い口調(激しい怒りの気持ちを感じました)で問いかけました。
1機100億円のオスプレイで、どれだけの人の生が支えられるのか。
その事実を、私たちはもっと知る必要があります。

参加者は14人でしたが、いろんな話が出ました。
発達障害のある家族がいる人や自分にも思い当たる人などもいて、話し合いはとても心に響くものが多かったです。

最初に出たのは「障害者」と「健常者」という言葉(概念)への違和感でした。
しかし、「障害者」という概念によって、そう言う人たちへの支援制度や社会の理解も進むという指摘もありました。

「仕事」とは何かというような話も出ました。
お金をもらう(あるいは「稼ぐ」)ことだけが仕事ではないのではないか。
仕事にはもっと大きな意味があるのではないかという話です。
自立とか就労支援ということの捉え方を、そろそろ変えないといけないのではないかと私は思っていますが、そのヒントもたくさんあったように思います。

書きだしたらきりがないので、これももしかしたらユーチューブで公開しますので、それを見てください。

最後に私の感想を話させてもらいました。
一つは「二次障害」の問題。
もしかしたら私自身が「普通呪縛」によって、子どもたち(あるいは周囲の人たちに)に二次障害を引き起こしてきたのではないかということに気づかせてもらったこと。
もうひとつは、勇太君の母親がいまとても幸せであるように、「自分にとっての勇太」を見つけることが、誰にでもできる、そして誰にとっても必要な、幸せになる条件だということに気づかせてもらったこと。
おかげで、私もちょっと生き方を正せるような気がします。

長い報告になってしまいましたが、まだ「発達障害に生まれて - 自閉症児と母の17年」(中央公論新社)をお読みでない方は、ぜひお読みください。
いろんな意味で、心が洗われ、世界が広くなると思います。

松永さんと参加者にとても感謝していました。
報告が遅れてすみませんでした。
Matsunaga181006


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2018/10/05

■第3回有機野菜の旬を楽しむ会のお知らせ

有機野菜の旬を楽しむ会も3回目になります。
今回のゲストは、“たなちゃん”こと、棚町弘一郎さんです。
福岡からはるばると小川町の霜里農場に研修に来て、今月でまる1年、11月には研修を終えて、福岡に戻ります。
そこで、棚町さんの1年間の霜里農場研修卒業のねぎらいと福岡での新たな門出の祝いを兼ねての、「たなちゃん送別会サロン」です。
私も、実はたなちゃんに会ったこともないので、送別会に出るのもおかしいですが、まあそんなことは気にせず、たなちゃんの1年間霜里農場生活の感想を聞きながら、新しい福岡での計画を聞くことで、有機農業への理解と期待を深めたいと思います。

たなちゃん持参の旬の有機野菜は「枝豆」です。
主催者の霜里農場の金子友子さんからのメッセージです。

今回はたなちゃんをゲストにして、福岡へ帰ったらどんな農業をするのか、農家になるのか、その今現在の気持ちを素直に皆で聞いて、この時期の旬、何と言っても枝豆、この小川町在来の美味しい枝豆を持って、それを食べながら、皆さんに送りだしていただきたい。
そして今後も、福岡からたなちゃんの、毎日とは言わないけれど、進展ぶりをFacebookで見ながら、一緒に疑似就農体験をしてほしいと思っている。
たなちゃんのフィアンセの早瀬萌ちゃんも来てくださる予定。
とてもよくお似合いの彼女です。
2人を見てみたいと思う方は、ふるってご参加を。

とまあ、そんな感じで、いつもよりも華やかな会になるようです。
有機野菜ファンの方はもちろん、枝豆好きな方は、ぜひご参加ください。

○主催者:霜里農場の金子友子さん
○生産者ゲスト:棚町弘一郎さん(霜里農場研修生)
○日時:2018年10月20日(土)14時~16時
13時半から開場しています。
○場所:湯島コンセプトワークショップ
東京の湯島天神のすぐ前です。
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
○会費:500円+思し召し(有機野菜のおいしさへの感謝)
○定員:15人以内 
※要予約(野菜の準備のため参加人数を把握したいのでできるだけ申し込みください)
○申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)

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2018/10/04

■節子への挽歌4047:20年ぶりの再会

節子
もう20年ほど前、宮城大学の教授だった半田さんの企画した特別授業に時々参加していました。
半田さんが、そこで立ち上げた日本構想学会の関係も会って、時々宮城大学にも行っていました。
その頃、まだ大学に入ったばかりの学生たちとの交流はいろんな気付きを与えてくれましたが、その時の一人の端田さんが、湯島に立ち寄ってくれました。
あの頃と変わっていないと感じました。
もちろんもう20年も経ちますから、変わっていないはずはないのですが、心は変わっていない。
ですから20年前にすぐに戻れました。

いまは仙台で仕事をしていますが、時々東京に来るそうです。
箸田さんが学生だったことの仲間の話もいろいろと出ました。
彼らの学生生活は、私にはいささかうらやましいほど恵まれていたような気がしますが、半田さんの影響もいろいろとあったはずです。
半田さんも含めて、またみんなで会いたい気がしました。

いまから思うと、あの頃は世界がまだ生き生きしていました。
とても懐かしく、楽しい時代でした。
しかし、過去を懐かしむようになるとは、私も老いたものです。

次の来客があったので、ゆっくり話せませんでしたが、またきっと会えるでしょう。
若い人と会うと、私も同世代になった気分になって、新しい課題に取り組みたくなります。
この数日疲れ切っていたのですが、ちょっと元気が戻りました。

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2018/10/03

■節子への挽歌4046:「気」は放さなければいけません

節子
いつものことではあるのですが、前の挽歌は、書きだす時に思っていたことと違ったことを書いてしまいました。
それで、いま挽歌の番号が2つほど遅れているので、もう一つ書くことにします。
病気治しの話です。

友人ががんになって、いまいろいろと悩んでいると書きました。
時々、電話したり会ったりしていますが、彼の一番の問題は、自らの思いをそれとなく解き放す場が少ないということではないかという気がします。
「がん」を宣告されると、その言葉が心を覆ってしまい、頭から離れなくなりかねません。
その友人は、家族がなく、独りで生活しています。
友人や知り合いは多いでしょうが、そうむやみに自分のがんの話はできません。
それに話をしたら、心配してくれて、いろいろとアドバイスや治療の紹介をしてくれる人も出てきます。
それがまた「うざったく」なってしまうこともあるのです。
心が定まっていないと、わらをもつかむ心境で、いろいろと試みたくなります。
私もそうでした。
そして疲れてしまう。

しかし自分の頭のなかだけで考えていると、悪い方向に考えが向いていき、逆に気が萎えていく可能性が強いような気がします。
これは病気に限ったことではありません。
いろんな問題に関しても言えますが、独りで考えていて、いい解決方向に向かう可能性は少ないような気がします。
自らの考えに、風穴を開けてくれるような、あるいは考えすぎて判断ミスを犯さないように立ち止まらせてくれるような、そんなことが必要です。
別に問いかけに答えてくれなくともよい。
アドバイスなどしてくれなくてもいい。
ただただ素直に話を聴いてくれて、相槌をうち、一緒に心配してくれる人がいるだけで、どれほど心強いことか。
私は、自らの体験からそう思っています。

自らのなかにある「気」を放し、離していくこと。
それこそが病気の人にとって大切なことかもしれません。
「グリーフケア」とは違いますが、どこか通ずるところがある。
しかしまた、「がん患者の集い」とは違うような気もする。

「気」は放さなければいけません。
湯島ではそういうことにも少し心がけています。
湯島に来れば、気が放しやすい。
そんな場所にできればと思っています。
節子から教えてもらったことの一つです。

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■節子への挽歌4045:人はみなそれぞれに違った「病」をもっている

節子
抗がん剤治療をしている友人が、副作用もあって、どうしようか迷っています。
昨日も電話でいろいろと話しました。
私自身は、節子との体験から、抗がん剤治療には疑問を持っています。
だからといって否定することはできません。
自分の場合はたぶん抗がん剤治療は受けないでしょうが。

がんの免疫治療のオプジーボを開発した本庶佑さんが今年のノーベル賞の受賞者に決まりました。
そのニュースがマスコミをにぎわしているので、彼も免疫療法に大きな期待を持っているようです。
これもまたいろいろと思うことがあります。
しかし、当の患者としては、大きな期待を持つことは間違いありません。
これも心当たりがあります。
がんは、実に悩ましいものです。

病気は言うまでもなく「生命現象」です。
ですから、その人の心の持ちようや考え方によって、大きく影響されます。
ある意味では、病気とは心の持ちようで変化させられるはずです。
心が病んで身体が病むということもあるでしょう。
その逆ももちろんあります。
そもそも「病気」という表現に「気」という文字が入っていますから、基本は「気」なのだろうと思います。
身体的な傷みに心が折れることは、私もないわけではありません。
しかし、私は大切なのは「気」だと思っています。
高血圧も風邪も、ですから私は心で治そうと、それなりに心がけています。

節子の時もそうでした。
ですから最後の最後まで、治ると確信していました。
今となってはそれが少し悔いになっていますが、その反面、よかったとも思っています。
最後まで、節子とは「病気の節子」としてではなく「健全な節子」として付き合えたからです。
人は誰もが歳をとると老化します。
それを病気として捉えるのは、私には残念な気がします。
私は「老人」という言葉も嫌いではありません。
人が老化するのは、健全なことです。
病気になるのも、ある意味では健全なのかもしれません。
そんな気が、最近してきています。

言い方を変えるとこうなります。
人はみなそれぞれに違った「障害」をもっているように、それぞれに違った「病」を持っているが、それこそが「健全な人間」なのだ。

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2018/10/02

■節子への挽歌4044:秋の畑はなぜかさびしい

節子
もう10月です。
昨日は台風一過で、都内もきれいな青空でしたが、今日もさわやかな青空です。
吸い込まれるほどの碧過ぎもせず、心やすまる青さでした。
久し振りに畑作業をしました。
台風で畑はもうめちゃくちゃになっていました。
育ちだしたニンジンやキャベツなども危うい状況です。
小さく実っていたスイカモチベーションやはり傷みだしていました。
百日草もほとんどがたおれていました。
畑のなかに育っていた、なまえのしらない樹が折れていました。
風の強さがわかります。
これだけの被害でも、元気を失うのですから、農家の方の脱落感はすごいのでしょう。
久し振りだったのと土がぐちゃぐちゃだったので、ほどほどで帰ってきました。
開墾の時は、やみくもに野草を刈り取ればよかったのですが、今度はそう簡単ではありません。
いささか気が重いです。

気が重いのは、台風被害のせいだけではありません。
秋という季節も影響しています。
秋の畑は、なぜかさびしい。
バッタともあまり出合えませんし、暑さで汗をかくこともない。
熱中症で倒れるかもしれないという楽しみもない。
それに野菜も野草も、あんまり元気がない。
気のせいかもしれませんが、野草もあまり攻撃的ではありません。
これではまったく面白くない。

まあ、そんなわけで、今日は1時間も畑にいませんでした。
畑作業は、やはり暑い夏こそふさわしいです。
秋の畑は、なぜかとてもさびしいです。

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■「反ヘイト・反新自由主義の批評精神」をお薦めします

「反ヘイト・反新自由主義の批評精神(岡和田晃 寿郎社 2000円)を先週、読みました。
「批評の無力が叫ばれて久しい。だが、本当にそうであろうか? 否、と大声で言いたい」という、岡和田さんの熱いメッセージから本書は始まります。
出版社からは、「文学界・思想界からの反響・反発が必至の〈禁断〉の文芸評論集」と紹介されていますが、著者の岡和田晃さんが「2008年から2018年まで書いてきた「純文学」とポストコロニアルな問題を扱う評論を、現代日本の閉塞状況を少しでも打破せんとする視座から精選」した評論集です。
副題は「いま読まれるべき〈文学〉とは何か」。
ほとんどの作品を読んでいない私としては、少し罪の意識を持ちながら本書を読みました。
岡和田さんは、作品を呼んでいない人への心配りをしているのですが、それでも時に取り上げられた作品を読みたくなります。
まあ、それが評論の一つの使命と効用なのでしょうが。

切り口は、アイヌ民族・沖縄・原発など、いわば「現代日本の辺境」からの「渾身の〈一矢〉」ですが、向けられている矢先は、東京界隈で無機的に生かされている私たちです。
その鋭い矢先は、私にもかなり鋭く刺さってきました。
岡和田さんの深い知と強い思い、そして「冷えた怒り」さえ感ずる「熱い本」です。

岡和田さんの批評精神への視線は、なかなか厳しいです。
「既存の権威におもねらず、単独者の観点から風穴をあける行為が批評」だと言い、「批評という境界解体的な知のスタイル」を縦横に駆使して、「虚飾とシニシズムが積み重なり、閉塞に満ちている」現代社会の実態を解き明かしていかねばならない、と言います。
しかし、現在の批評は岡和田さんの期待に応じていない。
「かつて批評とは、アカデミズムとジャーナリズムの谷間に位置し、両者を架橋する言説」として、新しい物語の創発を働きかけていたが、昨今の批評は、アカデミズムとジャーナリズムと一緒になって、「同調圧力を高める類の願望充足的な物語」の提供に頽落したと、厳しく指摘します。
しかも、批評は「無力」どころか、積極的な「旗撮り役」を担っている。
そうだそうだ!と、年甲斐もなく、思わず声を出したくなってしまいます。

文学や思想の根本に根ざす「どこからか不意にやってきて人間を揺さぶるような発想」から生まれる言葉が、真空に掻き消える前に把捉し、あらゆるカテゴライズの暴力を拒むダイナミズムを起こしていくことが、文芸批評だと、岡和田さんは言います。
言葉の力を、「こちら側」で、主体として確信している。
「批評とは、常に死との対話であり、終わりのない格闘でもある」とも言っています。
これもまた心に響きます。

しかし最近の私は、文学や評論から遠のいてきています。
20年ほど前から、そうしたものがうまく受け止められなくなってきているのです。
「現代文学は政治性や社会性から目を閉ざし、他者を意識することなく衰退の道を辿ってしまった」という岡和田さんの指摘に、自らの怠惰さが救われるような気がしましたが、その状況においてもなお、岡和田さんは文学や批評の意義を確信している。
そして、「このような知的風土に息苦しさを感じ、そこを切り拓く言葉、すなわち〈文学〉とは何かを模索」し、劣化しつつある現実を穿つために、本書に取り組んでいる。
我が身を省みて、大いに反省させられました。

本書の理論的な屋台骨は「ポストコロニアリズム」、それも「ポスト=終わった」植民地主義ではなく、まさに「いま、ここ」にある植民地主義です。
自分ではそう思いたくないのですが、もしかしたら私もすでにその十分な住人なのかもしれない。
それが最近の、私の厭世観や不安の根因かもしれません。
生き方を問い質さなくてはならない。

本書で取り上げられている作品のかなりの部分が、「北海道文学」です。
なぜ岡和田さんは北海道にこだわるのか。
それは、そこが日本の「辺境」だからです。
「辺境とは、近代国家が発展を遂げる際に、民族差別や「棄民」の発生など、切り捨てられた矛盾が露呈する場所。『北の想像力』が目指すのは、その矛盾から目をそらさず、できるだけ精緻に思考をめぐらせていくことだ」と岡和田さんは言います。
辺境では、埋められた過去に後押しされて現在の本質が露呈してくる。
そして、そこから未来の道が二手に分かれて見えてくる。
そこに岡和田さんは新しい地平を感ずるのでしょう。
ちなみに、私も、ある意味での「辺境の住人」を意識していますので、未来はそれなりに見えていると思っています。

しかし、辺境はまた、独善にも陥りやすい。
本書では、最後に「沖縄」がわずかに取り上げられています。
そこに私は大きな意味を感じました。

最初に会った時、岡和田さんは「SF評論」に取り組んでいると言ったような気がします。
そのSFは、「“思弁=投機”(スペキュレーション)性を軸に現実とは異なる世界を希求するSF(=スペキュレイティヴ・フィクション)」を、たぶん意味しています。
現実に埋没し安住するのではなく、思弁の世界にも遊ばなければいけない。
そこに岡和田さんのメッセージがあったのでしょうが、その時には気づきませんでした。
私も老いてしまったものです。
若いころ、私もSFの世界を楽しんでいましたが、どうもその頃の余裕を失ってきています。
自らの、いろんな意味での「老い」にも、本書は気づかせてくれました。

剥き出しにされた個としての人間を制度的に絡め取っていく国家に、どう対峙すべきか。
数字と金銭とシステムで構成された管理社会をどう生きていくか。
岡和田さんは、たとえばそう問いかけてきます。
そして、もっと悩めと追い込んでくる。
それが人間というものだろうと、いうのです。
反論のしようもありません。
老人には、酷な話なのですが、逃げてはいけない。
そういう意味では、生きる元気を与えてくれる本でもあります。

かなりハードな本だと思いますが、社会をよくしたいと思っている方には読んでほしい本です。
未消化の紹介で申し訳ないのですが、いのちと希望のこもった評論集です。


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