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2018/10/23

■節子への挽歌4053:“late”

節子
サイードの「晩年のスタイル」を読みました。
「晩年」というタイトルに魅かれたわけではなく、先日読んだ評論集に少し刺激を受けて、この有名な著作を手に取ってみたわけです。
それに、サイードという人にも関心がありましたから。

原書のタイトルは「ON LATE STYLE」です。
つまり、「晩年」は「LATE」の訳です。
この本は、サイードが亡くなった後に、友人のマイケル・ウッドが編集したのですが、ウッドが書いている序論にこんなような説明がありました。

lateという単語は、約束を守れなかったという意味〔「遅刻」〕から自然循環の一時期という意味〔「遅い」「後期」「晩期」〕を経て、消滅した生命という意味〔「亡き」「故」〕まで多岐にわたる。

彼も書いていますが、lateといえば、まずは、「遅れる」という意味、時間を守らなかったという意味を思い浮かべます。
しかし、夕方遅くlate eveningとか、遅咲きlate blossomとか、晩秋late autumnという表現もあると言います。
さらに、lateには、「亡き人」「故人」という意味もあるそうです。

ウッドは書いています。

死んだ人びとは、たしかに、時間を超えたところに行ってしまったとはいえ、私たちが死者について「late」と呼ぶことのなかに、いかなる複雑な時間的願望が潜んでいるのだろうか。lateなるものは、時間との単純な関係を名指しているのではない。それはいつも時間を引きずっている。それは時間を想起する方法である。

とても納得できます。
節子は、約束を守らずに、生命を終えました。
時間が前にだけすすむのであれば、「遅れた」わけではないのですが、今から逆に思えば、ある意味での「遅れた」行為でした。
そして、節子は今なお、私にとっては、「時間を想起する方法」なのです。
死者は、たぶん節子に限らず、永遠に「時間を引きずっている」存在です。

「晩年のスタイル」の本旨とは違ったところに引っかかってしまい、この本を読むのは時間がかかってしまいました。
しかもどうもピンときませんでした。
むしろこの本は、若い時期に読むべきだったかなと思っています。
あまりに広くて深い世界が展開されているので、圧倒されて、ついていけません。
それにカミユが軽く扱われているのも、ちょっとひっかかってしまいました。
若い時にカミユの「異邦人」に衝撃を受けたものとしては、何か自分が全否定されたような気にもなってしまいました。
しかし冷静に考えると、サイードの指摘のほうが納得できるような気もします。

節子がいたら、もう少し違った世界に入れたかもしれません。
いまにして思えば、まさにちょっと“late”な気がしますが。

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