■節子への挽歌4046:「気」は放さなければいけません
節子
いつものことではあるのですが、前の挽歌は、書きだす時に思っていたことと違ったことを書いてしまいました。
それで、いま挽歌の番号が2つほど遅れているので、もう一つ書くことにします。
病気治しの話です。
友人ががんになって、いまいろいろと悩んでいると書きました。
時々、電話したり会ったりしていますが、彼の一番の問題は、自らの思いをそれとなく解き放す場が少ないということではないかという気がします。
「がん」を宣告されると、その言葉が心を覆ってしまい、頭から離れなくなりかねません。
その友人は、家族がなく、独りで生活しています。
友人や知り合いは多いでしょうが、そうむやみに自分のがんの話はできません。
それに話をしたら、心配してくれて、いろいろとアドバイスや治療の紹介をしてくれる人も出てきます。
それがまた「うざったく」なってしまうこともあるのです。
心が定まっていないと、わらをもつかむ心境で、いろいろと試みたくなります。
私もそうでした。
そして疲れてしまう。
しかし自分の頭のなかだけで考えていると、悪い方向に考えが向いていき、逆に気が萎えていく可能性が強いような気がします。
これは病気に限ったことではありません。
いろんな問題に関しても言えますが、独りで考えていて、いい解決方向に向かう可能性は少ないような気がします。
自らの考えに、風穴を開けてくれるような、あるいは考えすぎて判断ミスを犯さないように立ち止まらせてくれるような、そんなことが必要です。
別に問いかけに答えてくれなくともよい。
アドバイスなどしてくれなくてもいい。
ただただ素直に話を聴いてくれて、相槌をうち、一緒に心配してくれる人がいるだけで、どれほど心強いことか。
私は、自らの体験からそう思っています。
自らのなかにある「気」を放し、離していくこと。
それこそが病気の人にとって大切なことかもしれません。
「グリーフケア」とは違いますが、どこか通ずるところがある。
しかしまた、「がん患者の集い」とは違うような気もする。
「気」は放さなければいけません。
湯島ではそういうことにも少し心がけています。
湯島に来れば、気が放しやすい。
そんな場所にできればと思っています。
節子から教えてもらったことの一つです。
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