■「反ヘイト・反新自由主義の批評精神」をお薦めします
「反ヘイト・反新自由主義の批評精神(岡和田晃 寿郎社 2000円)を先週、読みました。
「批評の無力が叫ばれて久しい。だが、本当にそうであろうか? 否、と大声で言いたい」という、岡和田さんの熱いメッセージから本書は始まります。
出版社からは、「文学界・思想界からの反響・反発が必至の〈禁断〉の文芸評論集」と紹介されていますが、著者の岡和田晃さんが「2008年から2018年まで書いてきた「純文学」とポストコロニアルな問題を扱う評論を、現代日本の閉塞状況を少しでも打破せんとする視座から精選」した評論集です。
副題は「いま読まれるべき〈文学〉とは何か」。
ほとんどの作品を読んでいない私としては、少し罪の意識を持ちながら本書を読みました。
岡和田さんは、作品を呼んでいない人への心配りをしているのですが、それでも時に取り上げられた作品を読みたくなります。
まあ、それが評論の一つの使命と効用なのでしょうが。
切り口は、アイヌ民族・沖縄・原発など、いわば「現代日本の辺境」からの「渾身の〈一矢〉」ですが、向けられている矢先は、東京界隈で無機的に生かされている私たちです。
その鋭い矢先は、私にもかなり鋭く刺さってきました。
岡和田さんの深い知と強い思い、そして「冷えた怒り」さえ感ずる「熱い本」です。
岡和田さんの批評精神への視線は、なかなか厳しいです。
「既存の権威におもねらず、単独者の観点から風穴をあける行為が批評」だと言い、「批評という境界解体的な知のスタイル」を縦横に駆使して、「虚飾とシニシズムが積み重なり、閉塞に満ちている」現代社会の実態を解き明かしていかねばならない、と言います。
しかし、現在の批評は岡和田さんの期待に応じていない。
「かつて批評とは、アカデミズムとジャーナリズムの谷間に位置し、両者を架橋する言説」として、新しい物語の創発を働きかけていたが、昨今の批評は、アカデミズムとジャーナリズムと一緒になって、「同調圧力を高める類の願望充足的な物語」の提供に頽落したと、厳しく指摘します。
しかも、批評は「無力」どころか、積極的な「旗撮り役」を担っている。
そうだそうだ!と、年甲斐もなく、思わず声を出したくなってしまいます。
文学や思想の根本に根ざす「どこからか不意にやってきて人間を揺さぶるような発想」から生まれる言葉が、真空に掻き消える前に把捉し、あらゆるカテゴライズの暴力を拒むダイナミズムを起こしていくことが、文芸批評だと、岡和田さんは言います。
言葉の力を、「こちら側」で、主体として確信している。
「批評とは、常に死との対話であり、終わりのない格闘でもある」とも言っています。
これもまた心に響きます。
しかし最近の私は、文学や評論から遠のいてきています。
20年ほど前から、そうしたものがうまく受け止められなくなってきているのです。
「現代文学は政治性や社会性から目を閉ざし、他者を意識することなく衰退の道を辿ってしまった」という岡和田さんの指摘に、自らの怠惰さが救われるような気がしましたが、その状況においてもなお、岡和田さんは文学や批評の意義を確信している。
そして、「このような知的風土に息苦しさを感じ、そこを切り拓く言葉、すなわち〈文学〉とは何かを模索」し、劣化しつつある現実を穿つために、本書に取り組んでいる。
我が身を省みて、大いに反省させられました。
本書の理論的な屋台骨は「ポストコロニアリズム」、それも「ポスト=終わった」植民地主義ではなく、まさに「いま、ここ」にある植民地主義です。
自分ではそう思いたくないのですが、もしかしたら私もすでにその十分な住人なのかもしれない。
それが最近の、私の厭世観や不安の根因かもしれません。
生き方を問い質さなくてはならない。
本書で取り上げられている作品のかなりの部分が、「北海道文学」です。
なぜ岡和田さんは北海道にこだわるのか。
それは、そこが日本の「辺境」だからです。
「辺境とは、近代国家が発展を遂げる際に、民族差別や「棄民」の発生など、切り捨てられた矛盾が露呈する場所。『北の想像力』が目指すのは、その矛盾から目をそらさず、できるだけ精緻に思考をめぐらせていくことだ」と岡和田さんは言います。
辺境では、埋められた過去に後押しされて現在の本質が露呈してくる。
そして、そこから未来の道が二手に分かれて見えてくる。
そこに岡和田さんは新しい地平を感ずるのでしょう。
ちなみに、私も、ある意味での「辺境の住人」を意識していますので、未来はそれなりに見えていると思っています。
しかし、辺境はまた、独善にも陥りやすい。
本書では、最後に「沖縄」がわずかに取り上げられています。
そこに私は大きな意味を感じました。
最初に会った時、岡和田さんは「SF評論」に取り組んでいると言ったような気がします。
そのSFは、「“思弁=投機”(スペキュレーション)性を軸に現実とは異なる世界を希求するSF(=スペキュレイティヴ・フィクション)」を、たぶん意味しています。
現実に埋没し安住するのではなく、思弁の世界にも遊ばなければいけない。
そこに岡和田さんのメッセージがあったのでしょうが、その時には気づきませんでした。
私も老いてしまったものです。
若いころ、私もSFの世界を楽しんでいましたが、どうもその頃の余裕を失ってきています。
自らの、いろんな意味での「老い」にも、本書は気づかせてくれました。
剥き出しにされた個としての人間を制度的に絡め取っていく国家に、どう対峙すべきか。
数字と金銭とシステムで構成された管理社会をどう生きていくか。
岡和田さんは、たとえばそう問いかけてきます。
そして、もっと悩めと追い込んでくる。
それが人間というものだろうと、いうのです。
反論のしようもありません。
老人には、酷な話なのですが、逃げてはいけない。
そういう意味では、生きる元気を与えてくれる本でもあります。
かなりハードな本だと思いますが、社会をよくしたいと思っている方には読んでほしい本です。
未消化の紹介で申し訳ないのですが、いのちと希望のこもった評論集です。
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