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2018年11月

2018/11/30

■人を評価する基準

ゴーンさんに関して、相変わらず日産をV字回復させた名経営者という評価が繰り返されます。
経営者たちや資本家たちがそういうのは納得できますが、会社で働く従業員までがそういうのがどうも不思議でなりません。
私が会社に入った時(1964年)には、経営者の役割は「雇用の場を増やすこと」だと会社の役員から繰り返し聞かされました。
それにとても共感していました。
それがある時に裏切られたために、私の人生観は変わりだすのですが、1970年代まではそうした「常識」がつづいていたように思います。

ゴーン経営を高く評価する人の企業経営観の基軸は、「人」ではなくて「金」にあります。
日本的経営観ではなく、アメリカ型の経営観に、いつのころから日本でもかわってしまったのです。
金のために人を切るのではなく、人のために金を活かすことが経営だと思っている私には、とてもついていけません。

先日、久しぶりに参加した企業のパーティで、アメリカで働いているアメリカ人から、「トランプ大統領は人間的には最悪だが、アメリカ経済をよくした点では最高だ」という話を聞きました。
その人はそれをとても喜んでいたように感じました。
どこかに違和感はあったのですが、パーティでのことなので、笑いながら同意してしまいました。
しかしどうも心に引っかかっています。
同意してしまった私にです。

人間よりも経済を大事にする。
ここにも本末転倒があるように思います。

どうも人の価値観は大きく変わってしまったようです。
いや、私自身が社会の変化についていけていないだけかもしれません。
困ったものです。

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2018/11/29

■カフェサロン「日本列島「法」改造論」報告

神戸大学名誉教授の行政法学者・弁護士の阿部泰隆さんをお迎えしての「日本列島「法」改造論」は13人が参加し、3時間を超える長いサロンになりました。
阿部さんの話は、なぜ自分が大学に残って教授になったのかという話から始まりました。
大きな志や日本を変えたいと思ったのか、と一瞬、期待した人もいたでしょう。
しかし、阿部さんは、子どもの頃からぜんそくがひどかったので、働きやすそうな大学に残ったのだというのです。
こんな感じで、聞く人の期待に肩すかしを食わせながら、聴く人を飽きさせない、そのくせ、メッセージしたいことはきちんとメッセージするというスタイルで、前半は笑いにあふれた阿部さんの独演会でした。

もちろん漫談だけやっていたわけではありません。
最初に挙げたのが、来年の「10連休」への疑問。
阿部さんは、一体だれが喜ぶのかと言います。
そしてそれによる弊害を、死者が増えるかもということも含めて、具体的に話されました。
つづいてさまざまな「おかしなこと」が縦横無尽になぎ倒されていきました。

しかしただ、個別問題を批判しただけではなく、その根底には現在の行政のおかしさへの本質的な問題提起がこめられていました。
まず阿部さんが指摘したのは、行政の法的安定性についてです。
日本は法治国家ですので、法律の安定性が保証されていなければいけません。
そのためには、法そのものが安定しているとともに、法の運用者である行政の恣意的な解釈や適用があってはなりません。
もちろん形の上ではそうなっていますが、阿部さんは、それは「神話」だというのです。

法は国民のためにあると言われますが、果たしてそうなのか。
法の安定性に関しては、官民不平等になっていると阿部さんは言います。
たとえば税金納入の過不足の是正に関しては、国民と行政では平等ではないし、さらに行政の都合で法は変えられる。それに行政を正す立場にある司法の独立性は、日本では制度的にも保証されていないことを説明してくれました。日本の法は誰のために運用されているのか。
法が整備されれば法治国家になるわけではありません。
そこをしっかりと考えていかなくてはいけない。

問題は行政だけにあるわけではありません。
私たち一人ひとりにもある。
阿部さんは、自分で考えることが少なくなっているのではないかと問いかけます。
偉そうな人(たとえば自分を含めた大学教授や官僚など)が言ったからと言ってそのまま信じてはいけない。
通説と言われるものも疑わなければいけないと阿部さんは言います。
疑うことから考えることがはじまり、自分の判断力が生まれていく。
与えられたことを、考えもせずに受け入れてしまう国民性。
行政が勝手なことをやってしまう一因は、国民である私たち一人ひとりがちゃんと考えないからかもしれません。

ちなみに、阿部さんは、法学者としての自分の使命を次のように考えています。
日本の社会はいま何が問題なのか、その問題解決のためにどういう法制度を整えたらいいのか、法制をどう動かしていったらいいのかを考え、それを提案し実現していくこと。
そのためには、まずは通説や常識を「疑うこと」です。
何事にも、「なぜか」という問いを忘れない。
阿部さんは、疑問に思うことを大切にしています。

そうしたことを根底に置きながら、阿部さんはさまざまな問題を語ってくれました。
国の戦争責任から「女子トイレを増設せよ」「相撲の土俵の下にマットレスを」などといった話まででました。
阿部節を体験されたい方は、阿部さんの著書「日本列島「法」改造論」をぜひお読みください。
「逆転の発想による法改革」によって、日本を変える提案が満載です。

話し合いでもさまざまな話題が出されました。
最初の質問は、住民訴訟に関する質問でした。
ほかにもいろんな質問が出ましたが、阿部さんは、法治国家の本質のような内容まで含めて、専門的にとてもわかりやすく解説してくれました。
学校教育の話も盛り上がりましたし、日本人の国民性の話もでました。
あまりにいろんな話題が出たので私の記憶容量の限界を超えて思い出せませんが、帝国を過ぎてもなかなか終わらないほど、にぎやかな話し合いでした。

誰がこんなおかしい社会にしてしまっているのか、という話もあり、それへの回答も、阿部さんからも含めて出されました。
しかし、最後に阿部さんは、もっとみんなが行政の実態を知り、自分で考えていかなければいけないと話しました。
今回のサロンに参加した人の多くは、それぞれにそうした活動に取り組んでいる人ですが、もっと横につながっていくことが大事だなと改めて思いました。
そこにこそ、湯島のサロンの意味はあるのですが。

阿部さんの体制批判は、実に具体的で何よりも明るいのです。
そこに阿部さんの人柄が出ています。
後で感想を送ってきた人は、「文楽や志ん生の落語を聴いた後のような、すっきりとしたにごりない喜びを感じました」と言ってきました。
面白い中にも、いろいろと考えさせられるサロンでした。
こうした、明るく楽しい雰囲気で政治や行政や法の問題を話し合う場がもっと増えていくといいなといつもながら思います。

ところで、参加したほとんどの人が、阿部さんの話にほぼ同感ですと感想を言っていました。
しかし、そこにこそ、大きな問題があるのではないかと、いささか天邪鬼の私は思います。
いろいろと主張の多いはずの参加者が、一様に「ほぼ同感」だといい「すっきりした」といい、阿部さんの話に共感してしまう。
自分ではまだあんまり考えていない大学生たちなら、もっと納得してしまうのではないか。
阿部さんの話を聞く私たちも、阿部さんと同じく、もっと「疑う」こと(阿部さんの意見への疑いを含めて)を大事にしなければいけません。
ちなみに阿部さんは、あることを批判する時にも、絶対的な口調ではなく、自分はそう思うがというような謙虚な話しぶりでしたし、話の最初に自分の権威(高名な大学教授)を意図的に壊すような話を語ってくれていました。
それにもかかわらず阿部さんの話にあまり異論が出なかったのが、ちょっと心残りでした。
阿部さんの考えとあまりにも参加者の波長が合ってしまったのかもしれません。
それはまたそれで、問題かもしれません。

阿部さんが東京にいたら、連続サロンを企画したのですが、残念です。


Abe1811262


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2018/11/28

■「1%と99%の戦い」の幕が上がった?

日産のゴーンさんの逮捕には興味はなかったのですが、最近の報道を見て、これはもしかしたらとてつもなく大きな事件になるかもしれないという気がしてきました。
一言で言えば、「1%と99%の戦い」の始まりです。
日本の検察がもしそれを意図的に始めたとしたら驚くべき話です。

ゴーンさんはまだ1%の人たちの仲間ではないとしても、1%側の人を目指しているだろうと思います。
その人を起訴することになれば、「1%と99%の戦い」になる可能性は否定できません。
すでに報道されていますが、アメリカでの最高の弁護士の一人が弁護することに決まったようです。
企業事件の裁判の本場はアメリカでしょうから、日本の弁護士などとは格段に強力な力を持っていると思われます。
私たちはともすれば、裁判に正義や真実を期待しますが、現在の裁判は正義や真実を問う場ではありません。
客観的なデータを材料にして、法に合っているかどうかを争う場です。
この種の裁判に手馴れているアメリカの弁護士とあまり手馴れているとは思えない日本の検事とでは、最初から勝負は見えているような気もします。

しかしよほどの自信がなければ日本の検察もこうしたドラマティックな宣戦の仕方はしなかったでしょう。
私がイメージしている検察は、勝つ方法がわかっていることしか起訴しない体質を感じます。
だから最初は、検察の後ろに日本政府やフランス政府がついているとばかり思っていました。
ですから前のノートに書いたように、私にはまったく興味がなかったのです。
ところがどうもその後の報道では、フランス政府もルノーも了解していないようです。
とすれば、これはとんでもない物語の始まりかもしれません。
日本の検察が1%族に戦いを挑んだというわけです。

しかしもう一つの解釈もあります。
これは99%族の成り上がり者が1%族になろうとしていることに対して、1%族が見せしめで、誘発させた事件かもしれません。
たかだか100億円足らずの小銭で、小賢しい細工をするような人は1%族の文化とは違う種族だと思われたのかもしれません。
それにそもそもゴーンさんの生き方は庶民的すぎます。
文化が合うはずがない。
そう考えると、この事件はどこかにおかしさがある。
そもそも「司法取引」などということが使われていることにも違和感があります。
報道の仕方も、ちょっと理解できないこともある。
もしそうだとすると、アメリカ最高の弁護士がゴーンさんについたことの意味を考え直さなければいけません。

この事件の筋書きを描いているのがどちらの人かはわかりませんが、いずれにしろ、「1%と99%の戦い」につながっていく可能性はある。
こう考えると、これまでまったく関心がなかったこの事件への興味がわいてきました。
西川日産社長の勇気に拍手を送りたいです。
西川さんも1%族の下っ走りでいれば、日本の多くの大企業の社長のように、あるいは多くの官僚や政治家のように、これまでのような暮らしができたでしょうに。

何が西川さんに起こったのか、それへの興味も出てきました。

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2018/11/24

■カフェサロン「お寺の跡取り息子の宗教観」報告

「宗教を考える」サロン第2弾は、「お寺の跡取り息子」の小林永照さんに、ご自分の物語を語ってもらいました。
小林さんは現在、寺小屋、地蔵の会など、お寺を舞台にしてさまざまな社会活動に取り組んでいますが、最初にそうした活動を紹介してくれました。
いずれも社会に開かれたとてもいい活動です。
こういう活動が広がれば、お寺はまた地域社会のセンターになっていくかもしれませんし、宗教の役割が見直されるかもしれません。
ところが小林さんは、こういう活動は格好いい話に聞こえるかもしれないけれど、それに取り組んでいる自分は、つい最近まで僧になったことに必ずしも納得できていなかったと、ご自分のことを語り始めました。

小林さんは、葛飾区にある青戸やくじん延命寺の長男として生まれました。
小学生の頃に得度はしたものの、特に仏教に強い関心を持ったわけでもなく、本堂の大日如来も、ただの仏像としてしか見えていなかったそうです。
大学で専攻したのは国際政治経済。小林さんの若き葛藤を感じます。
19歳の時に、真言宗の僧として灌頂を受けて正式に僧として自立したはずにも関わらず、どこかに納得できない自分がいて、「ぐちゃぐちゃ」していたということを赤裸々に話してくれました。
時には、なんで仏門に入って僧としての人生を歩まないといけないのかといった「恨み節」に陥ることもあったようです。
自分探しのために、社会人大学院に入り、そこで哲学者の内山節さんに出会います。
それから少しずつ小林さんの人生が変わりだします。
お寺で生まれ、そこで生活させてもらっている以上、お寺を活かして何か社会的な活動に取り組まなければという思いから、冒頭に話してくれたいろんな社会活動を3年ほど前から始めたそうです。
私が最初に小林さんにお会いした時に、小林さんからその話を聞いて、小林さんにいつかサロンで話してもらいたいとずっと思っていたのですが、その頃はまだ小林さんは「ぐちゃぐちゃ期」の最中で模索していたわけです。

小林さんの意識が大きく変わったのは、1か月ほど前の今年の10月です。
お父上と一緒に、ある親子の僧の灌頂に立ち合ったのだそうです。
灌頂というのは、諸仏と縁を結び、種々の戒律や資格を授けて、師の継承者となるための密教儀式で、小林さん自らも19歳の時に受けています。
その時にはまだ自分が僧になったという感激はあまりなかったそうです。
しかし今回は違いました。
ほかの僧の灌頂をお手伝いしただけなのに、灌頂を受けている若い僧を見守っている大日如来を感じたのだそうです。
それまでは単なる仏像だった大日如来が、若い僧のみならず、自らの行いも見守ってくれているという実感が突然にすとんと身心に入った。
大日如来を観じた小林さんは涙が出たそうです。
そして僧になってよかったと初めて心底から思ったといいます。

ぐちゃぐちゃの中で、行を修めていた小林さんにとっては一種の悟りなのでしょうか。
いまは客観的に自分を見ている自分も感じられるようで、自分を捉え直すことができたとおっしゃいます。
以前は、救いを外に求めていたが、いまは救いは自分の中にあると思えるようになったとも言います。
救いが自分の中にあれば、他者の救いにも寄り添えるかもしれません。

小林さんの物語を長々と勝手に書いてしまいました。
私が主観的に解釈しているところもありますので、小林さんからはちょっと違うよと叱られそうですが、まあ大筋はそう間違っていないでしょう。たぶん、ですが。

こんな話を踏まえて、話し合いも盛り上がりました。
クリスチャンも数名いましたし、仏教を信ずる人もいました。
無神論者もいたかもしれません。

小林さんは、宗教の教義よりも仏事や神事を通して仏や神の世界を学んできたと言います。
人間の普段の生活は神仏の世界とつながっていて、それが仏事に現われている。
大げさな仏事でなくとも、日常生活の中で手を合わせて祈ることがあれば、そこで仏の世界ともつながれるというのです。
小林さんにとっての修行は、まさに仏事や日常生活の行いの中にあるのでしょう。
しかし、今の都会の生活の中では、そうした体験の場は少なくなっているかもしれません。
先祖や死者とのつながりだけではなく、同じ時代を生きている人とのつながりさえもが失われてきている。
そして、人のつながりを失う中で、私たちはいろんなものを失ってきているのではないか。
人のつながりが失われていくなかで、他者への祈りも忘れだしている。
小林さんは、そうしたことを取りもどいていきたいと考えているようです。
それが、信仰につながっていく。
気づいてみたら、3年前から小林さんが自分のお寺で取り組んでいることは、まさにそれだったわけです。
お話を聞いていて、私は修行ということの意味の深さに気づかされました。

またまた勝手な解釈の報告になりました。
当日はもっと話題は広がっていました。
たとえば、仏教には修行はあるが、キリスト教には修行という考えはあるのか。
お寺や僧侶の役割は何なのか。
お寺は、困った時に相談に行く場所になっているか。
お寺にいくとどうして厳粛な気分になるのか。
大日如来を感じたというが、霊的な問題をどう考えるか。
震災後によく話題になる「幽霊」の話も出ました。

仏事に関する面白い話もありました。
お盆の迎え火の翌朝早く、先祖がいなくなったお墓にお供えをする風習が小林さんのお寺にはあるそうです。
留守のお墓にいる無縁仏にお供えするのだそうです。
仏事に込められた「つながりの思想」。
私も含めてサロン参加者はみんな初めてそういう風習を知りました。

小林さんのお話を聞いて、信仰や宗教は、与えられるものではなく、生活を通して出合えるもの
真摯に自分を生きることこそが信仰であり、宗教は、どんな宗教であろうと、そうしたことを考えさせてくれる存在であること。
修行とは、自分に誠実に生きること。
そんなことを気づかせてもらったサロンでした。
あまり言葉としては出ませんでしたが、「信仰」と「祈り」が今回のサロンの底流にあったような気がします。

できれば次回は、「信仰」や「祈り」を話し合うサロンができればと思っています。
現在、話の口火を切ってくれる人を募集中です。
よろしくお願いします。

Shugyo181122


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2018/11/22

■石は意思をもっているか

先日の湯島のサロンで、鉱物も生きているのではないかという発言をしてしまいました。
サロンの前日に、ある本で、こんな文章に出くわしたからです。

物質から意識が生まれるはずはないというのは、私たちの単なる思い込みなのかもしれませんね。ご著書で紹介されているチャーマーズの仮説では、月の裏側にぽつんと置かれた石も、太陽光によって容積を膨張させたり収縮させたりするのであれば、自分の温度という意識をもつことになるということですが、それも領けるような気がします。
たばこ総合研究センターで発行している「談」の最新号の、渡辺正峰さんにインタビューしている編集者の佐藤真さんの発言です。 ここで、「ご著書」というのは、渡辺正峰さんの「脳の意識、機械の意識 脳神経科学の挑戦」という本です。 この本は面白いです。

佐藤真さんとは知り合いではないのですが、一度、電話で話したことがあります。
間違い電話をしたら、偶然に佐藤真さんが電話に出たのです。
面識はないのですが、なんとなくそんな気がして、もしかして佐藤真さんですかと訊くとそうだというのです。
それで、「談」は愛読書ですと伝えましたが、間違い電話に会いたいと思っていた人が偶然に出るというのも珍しいですが、その人から話しかけられるというのもめずらしい体験(ちょっと不審な体験と受け取られたかもしれませんが)だったと思います。
残念ながらまだ直接お会いできる機会がやってきていませんが、いつか会えるでしょう。


大学生の頃、読んだソ連作家のSF作品に、生きている石のはなしがあったので、その本を探したのですが、どこかに埋もれていて見つかりません。
短編集ですが、そこには地中を飛び交う鳥の話もありました。
いずれも私の世界観を広げてくれた小説です。

ところで、石が意思をもつかですが、サロンの参加者から「さざれ石」もあるねとメールが来ました。
そういえば、ルーマニアにはトロヴァントの石という、成長し分裂していく石もあるそうです。
それに有名な「ガイア仮説」という、地球自体が生きているという説もあります。
これもソ連の作家の「ソラリス」という長編小説(2回、映画化されています)は星自体が生命体でした。

石には意思があると思うと、そうぞんざいには扱えません。
それに最近の日本人を見ていると、むしろ意思を持っていないのではないかと思ってしまうこともあります。
AIの意思もさることながら、まずは自らの意思をしっかりと自覚しなければいけません。
まあ、そうするとちょっと生きにくいこともありますが。

湯島のサロンでの話し合いは、こんな形で後に続いていることもあります。
そしてそれが時にまた次のサロンになるわけです。
石に意思があるかは、サロンのテーマにはなりそうもありませんが。

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■節子への挽歌4065:みかんが熟しました

節子
今日はまた一段と寒いです。
裸足の生活も今日が最後になりそうです。

節子が植えていたみかんが熟しています。
節子は庭に果実のなる木を植えるのをなぜか好みませんでした。
私の好みとは全く反対です。
その例外がみかんです。
今でも覚えていますが、茨城の花屋さんに遠出をした時に、そこで小さなみかんの木を買いました。
なぜそんなお店に行ったのか私には思い出せませんが、節子は時々、知らないお店に行くのが好きでした。
多分誰かから話を聞いたのでしょう。
それで私も一緒に行ったのですが、農地のはずれにある小さなお店でした。
いろいろとめずらしい花の苗を買った気がしますが、最後になぜかそこに会ったみかんの木も買ったようです。
節子が再発する直前だったと思いますが、節子がその木でなったみかんを食べたかどうかも記憶がありません。
お供えしたことはありますが。
しかし、このみかんを見ると節子を思い出します。
昨日は孫が来ていたので、一番大きなみかんをとってプレゼントしました。
たぶんあまり甘くはないでしょう。

こたつに入って、夫婦でみかんを食べながら語り合う。
そういう暮らしが私の理想の老人生活でしたが、体験することはかなわなくなってしまいました。
独りの冬は、ただ寒いだけです。

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2018/11/21

■節子への挽歌4064:ゴーンさんが逮捕されました

節子
またあっという間に、挽歌の番号が1か月もずれてしまいました。
挽歌を書かなくても大丈夫になったということでもありますが、挽歌を書けないほどに気が落ちてきているということかもしれません。

時評編に書きましたが、いま、日産のゴーンさんの逮捕が話題になっています。
背景にいささか政治的なにおいがするのですが、ゴーンさんの写真を見ると思い出すのが、箱根の、たしか十国峠で、ゴーンさんの家族と会った時のことです。
目ざとくゴーンさんを見つけた節子は無謀にも私とゴーンさんの並んだ写真を撮っていいかとゴーン佐藤修に頼んで、私たちをカメラで撮りました。
私はゴーンさんと並んで写真をとっても嬉しくもなかったのですが、節子にはそういう趣味が少しありました。
しかし何と言って節子はゴーンさんに頼んだのでしょうか。
まあそれはともかく、この話には続きがあって、実はその写真は撮れていなかったのです。
メカに弱い節子が動作ミスをしてしまったのです。
ですから写真は存在せずに、ただその思い出だけが残っているのです。
いかにも節子らしいことなのですが。

まあそのおかげで、ゴーンさんを見ると、節子を思い出せるわけです。
ちなみに、節子はいろんな有名人を目ざとく見つける人でした。
鎌倉では永六輔さんを、丸の内では養老孟司さんを見つけました。
もちろん写真を撮ってくださいと歯さすがに言いませんでしたが。
ゴーンさんの時は、例外中の例外でした。
その時には私も節子の意向に抗えずに、ゴーンさんと並んだのです。
念のために言えば、その時も今も、私はゴーンさんには同情はしますが、特別な人などとは全く思っていないのですが。

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■お金が人間をどんどんと劣化させている

日産を立て直したと言われるゴーンさんが逮捕されました。
それに関しては、何の感想も持ってはいないのですが、これに関して日頃から気になっていることを書きたくなりました。

ゴーンさんは名経営者とか日産を立て直したとか、よく言われます。
日産では2万人の従業員を解雇したにもかかわらず、日産の売上規模は大きくは変わらず、それで会社はV字回復したと言われています。
たしかに会社の業績で評価すれば、立て直したと言ってもいいでしょう。
しかし会社とは何なのか。
2万人の解雇された従業員の視点に立った時、「会社が立て直された」と言えるのかどうか。

そもそも会社とは何なのか。
会社にとって従業員は単なる手段なのか。
従業員を解雇して会社業績を上げることは、「会社の立て直し」と言えるのか。
私には、それは「経営」とはとても思えないのです。

もう一つ気になるのは、高額な報酬です。
海外のグローバル企業の経営者の報酬に比べたらそんなに高額ではないといわれています。
たしかにそうでしょう。
しかし、そもそもグローバル企業の経営者の報酬が高額すぎるのです。
自らの会社の従業員の給料に比べて比較にならないほどの高額の報酬を得ていることになんの疑問ももたない経営者は、はたして経営者と言えるのか。
私には、そうした人たちは「経営者」とはとても思えないのです。
略奪者でしかない。

まだまだ気になることはあるのですが、まあそういうことを少しでも考える人が出てきてほしいです。
せめて「経営者」とか「経営」の捉え方を見直してほしいです。

お金が人間をどんどんと劣化させている。
そんな気がしてなりません。

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2018/11/20

■カフェサロン「『ホモ・デウス』が予告する政治の未来と民主主義」報告

話題の本『ホモ・デウス』が展望している近未来を踏まえて、「AIと民主主義」をテーマにしたサロンを、リンカーンクラブとCWSコモンズ村の共催で開催しました。
『ホモ・デウス』でのメッセージは簡単なメモにまとめて当日配布しました。

かなり主観的なまとめですが、こういう流れで整理しました。
① 認知革命によって「ホモ・サピエンス」が生まれた(「サピエンス全史」)。
② ホモ・サピエンスは創造主の神から解放されて、人間至上主義教(ヒューマニズム)を生み出し、自分たちの王国をつくりだした。
③ 自我の誕生により、「人間」は「個人」として自立し、「個人の尊厳」「人権意識」という考えが生まれた。
④ ホモ・サピエンスによるAIの創造により、人間中心の世界観はデータ-中心へと変化し、民主主義や個人の尊厳は意味を失う。
⑤ ホモ・サピエンスの一部は、種としてのホモ・デウスへ進化し、進化しそこなったホモ・サピエンスは消滅する。
少し詳しいメモは次のサイトにあります。
http://cws.c.ooco.jp/hd.htm

それに基づき、参加者で自由に話しあいました。
あまりにも話題は多岐にわたったので紹介は難しいですが、極めて主観的に出た話題を列記します。

Amazonがその人に合った本を推薦してきてくれるように、自分以上に自分のことを知っているAIが自分に最もふさわしい候補者を推薦してくれる。
そうだとすれば、そもそも選挙も代議士もいらないのではないか。
AIが中心となる社会の議員の役割は今とは全く違うのではないか。
そういう状況では「民主主義」や「個人の尊厳」はどういう意味を持つのか。
そもそもAIにとって人間は必要な存在なのか。

1%と99%の人間の対立の中で、AIはどちらに味方することになるのか。
対立の構図は、人間対人間ではなく、人間対AIになるのではないか。
AIに対して人間の強みは何か。
そもそも、進化したAIは機械なのか生命体なのか。つまりAIは人間によって操作される機械なのか、あるいは人間を「端末備品」とする新しい生命体なのか。

AIと人間が合体していくのが「ホモ・デウス」なのか。
すでに身体にチップを埋めだした人間が増えてきている。
私たちはすでに膨大なビッグデータによって嗜好さえも管理されつつあるのではないか。
人間は、サイボーグやホボーグのような新しい生命体に進化するのか。
その時には、今以上に大きな格差、たとえば永遠の生命を持つホモ・デウスとそれに隷属する使い捨ての人間とに分かれるのか。

AI中心の世界では、戦争も経済も変質する。
現在の政治は、ヒューマニズムを根底に置いて国民を守ることを目指しているが、AIが行なう政治の目的は何なのか。
そもそもAIが統治する世界では人間は存在しうるのか。

まあ、こんなような議論がありました。
いつものように収斂しない発散型の議論でしたが。

私は最近のサロンで時々話していますが、このままだとAIは人間を不要なものとしていくだろうと思っていますが(つまり科学技術の方向性が間違っている)、なかにはこれからも科学技術を軸に人間社会を進化させていくべきだという「重脳主義」を主張する人もいました。
美とか文化とか、あるいは論理を越えたひらめきによる英知がAIにはできないだろうという意見もありましたが、私はむしろそういう世界こそがAIの得意分野ではないかと思っています。

話を聞いていて思い出したのが、鎌倉時代に公権力の枠を超えて自由に生きていた「悪党」たちです。彼らは「網野史学」によれば、人の力を超えたものとのつながりをもっていたとされていたそうですが、現代の悪党はまさにAIとのつながりを得た人かもしれないとふと思いました。

近代において、社会の単位が人間から個人へと変わることで、ヒューマニズムの意味は変質したと私は思っていますが、AIの進化で、またヒューマニズムが変質するような気もします。
あまりにも深い話に陥りそうですが、AIの脅威には無関心ではいられません。
なにか欲求不満のままに終わったので、年明け後にもう一度、企画できればと思っています。

もうひとつだけ感想を加えれば、これまでの発想の枠組みを変えて議論することは難しいということです。
人間を超えていくかもしれないというAIですが、どうしてもAIよりも人間が上位にあるという見方から私たちはなかなか抜け出せずにいます。
それを改めて痛感したサロンでした。

Homodeus181118


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■カフェサロン「大家族主義経営を考える―個人と組織の関係」のご案内

西精工という会社をご存知でしょうか。
四国の徳島にある会社です。
「ホワイト企業大賞」や「日本でいちばん大切にしたい会社大賞」などを受賞し、「人間尊重型経営」で成果を上げていると話題になっている会社ですが、今回は、西精工を事例にして、これからの企業のあり方を考えてみたいと思います。

といっても、同社は四国の徳島にありますので、同社の方をお呼びするのは難しいのですが、幸いに最近、同社の経営に関する書籍が出版されました。
書名がちょっと長いのですが、「人間性尊重型大家族主義経営」(内外出版社)です。
西精工社長の西泰宏さんによる経営実践が生き生きと紹介されていますが、それだけではなく、前半部分で、天外伺朗さんが「ティール組織」モデルを踏まえて西精工の経営のポイントを解説しています。
逆に言えば、最近話題の「ティール組織」について、西精工をモデルに、天外さんの解説が行なわれているということでもあります。
そこで、ティール組織の考え方を具体的に考える意味でも、西精工を取り上げることにしました。

そこで、本書の編集に関わった上本洋子さんに、西精工の経営に関して話題提供してもらったうえで、「人間性尊重」と「企業経営」をキーワードにしながら、これからの企業のあり方や個人の働き方について、みんなで話し合えればと思っています。
参加する方はできるだけ事前に「人間性尊重型大家族主義経営」を読んできてもらえればと思っています。

みなさんの参加をお待ちしています。

〇日時:2018年12月 日( 曜日)午後6時半~9時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「大家族主義経営を考える―個人と組織の関係」
〇問題提起:上本洋子さん(自在株式会社)
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)

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2018/11/19

■カフェサロン「過労死など起こらない働き方の未来を考える」報告

「過労死など起こらない働き方の未来を考える」のサロンは、7人の参加者がありました。
「働き方」が問題になっているので、もっとたくさんの人が参加すると思っていたのですが、意外でした。
今回、問題提起してくださった小林さんは、過労死は、突然誰に起こってもおかしくないのではないかと話してくれましたが、私も同感です。
多くの人にとって、決して「無縁」ではありません。
しかし、まだまだ「過労死」は特別の「事件」と位置付けられているのかもしれません。
私は、そこにこそ問題の本質があるような気もします。
本気で「働き方」(生き方)を変えようとみんな思っているのでしょうか。

小林さんは、15年前の40代の時に企業で働いていた夫を過労死で亡くされました。
小林さんと3人の子供たちの生活は大きく変わってしまったでしょう。
企業での過労死の場合は、会社の上司や経営者への怒りも起きがちで、憎悪におそわれることもあります。
小林さんは、しかし、憎悪の世界に引き込まれることなく、悲しみのなかで、なぜ夫は過労死に追い込まれたのか、そしてどうしたら過労死をなくすことができるのか、に取り組んできました。
医療や福祉の分野で仕事をしていた小林さんの使命感もあったでしょうが、それが小林さんの支えになってきたのかもしれません。
そして、いまは過労死家族の会に参加して、同じ立場になってしまった家族の支援や過労死防止のための活動に取り組んでいます。
小林さんは、そうした15年を語ってくれました。

小林さんはこう話してくれました。
過労死は社会問題となって既に30年近くになるのに、いまもなお、過労死・過労自殺は年齢、性別、職種を超えて広がり続けている。
毎年2万人以上の自殺者の中には、相当数の過労自殺が含まれている。
疲労の蓄積をもたらす最も重要な要因として、「長時間にわたる過重な労働」が考えられるが、相変わらず長時間労働の実態は改善されず、最近話題になったように、裁量労働制などでむしろ長時間労働を是認するような動きさえも見られる。
長時間労働は、脳や心臓疾患との関連性が強いという医学的知見が得られているし、業務における強い心理的負荷による精神障害により、正常の認識、行為選択能力が著しく阻害され、自殺に至る場合もあると考えられている。

そして小林さんは、残業時間をせめて月45時間以内にすれば、過労死をかなり減少させることができるはずだ、とデータで示してくれました。
厚労省が発表している「過労死等の労災補償状況」(平成29年度)によれば、時間外労働時間が45時間以内の場合は、該当者がゼロになっています。
1998年には、月45時間を限界とする行政指導基準が労働大臣の告示として出されているそうですが、法的拘束力がないばかりか、適用を回避する条件も示されています。
時間がすべてではないだろうが、せめてこの45時間基準に法的拘束力をつけるだけでも、かなりの過労死は避けられるはずだ、と小林さんは考えています。
そしてそうした活動に、仲間と一緒に取り組んでいるのです。

小林さんは、最後に2つの文章を読み上げてくれました。
ひとつは亡くなった夫が残した家族あての遺書。
もうひとつは、国際労働機構(ILO)が昨年スタートさせた「仕事の未来世界委員会」で確認された次の方針です。
「仕事の未来は、既に運命的に決まっているものではなく、われわれの主体的な意思や行動で
より良いものに変化させることのできるものだ」。
いずれも心に響くものがあります。

小林さんの話を受けて、いろんな視点での意見が出されました。
「個人と組織の関係」や「働くとは何か」。
みんな時間に追われているという意味でも「時間」が「人」を追い込んでいるのではないか。
過労死に追い込まれるような会社よりも、みんなが楽しく働けるような会社のほうが業績を上げている事例も多いのに、なぜそうした会社が増えていかないのか。
ほかにもいろいろと出たはずなのですが、なぜかいつも以上に、思い出せません。
この問題には私も少し思い入れが強すぎるからかもしれません。
参加された方、できれば話し合いのところを補足してください。

過労死は、小林さんが言うように、いまのような社会においては、誰にでも起こりうることです。
過労死までいかなくても、精神的にダウンしてしまっている人も少なくありません。
過労死の問題は、まさに私たちの生き方、さらには社会のあり方につながる問題です。

それはまた、現代の組織の本質につながる問題かもしれません。
人間にとっての仕組みだったはずの「会社」や「組織」が、いつの間にか人間を追いやってしまう存在になっているのかもしれません。
そこで、湯島のサロンでは、「個人と組織の関係」をさまざまな視点から考えるサロンを時々開催していこうと思います。
それが、「過労死がなくなる社会」に向けて私のできることのひとつだと思うからです、
案内はまた別に投稿させてもらいますが、その第1回を12月5日に開催します。


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2018/11/14

■コムケアサロン「家族の介護・相続に向き合う」のご案内

一般社団法人コレカラ・サポート代表の千葉さんは、現場に出向くことから問題を確認し、その解決に取り組むという活動に取り組んでいます。
しかし自分だけでは限界があり、同じような能動的な姿勢で高齢者の抱える問題の相談に応じて、一緒に問題解決に当たる仲間を増やしたくて、コーピング講座を始めました。
「コーピング」とは“課題に向き合うこと”です。
そこに千葉さんのこれまでの活動のエッセンスが詰まっているのだろうと思います。
今回は、「家族の介護・相続に向き合う」をテーマに、千葉さんの活動実践のお話をお聴きしながら、私たちの「コーピング」の力を高めていければと思います。

千葉さんからのメッセージです。

「コーピング」とは“課題に向き合うこと”です。
介護者や、人が亡くなったあと遺族となった人は、様々な課題を抱えることになります。
そこには、誰もが知るような表面的な悩みもあれば、当事者も気づくことが難しい内面的に 隠れた悩みもあります。
高齢期における当事者と、支えになる人を包括的に支援するには、 どのように向き合っていけばよいのでしょうか?
今までコレサポは、遺族支援や介護者支援の様々な現場で「コーピング」を実践してきました。
今回のサロンでは、今まで経験してきた「コーピング」の事例をご紹介します。

千葉さんは、コーピング講座も定期的に開催していますので、そのエッセンスも今回紹介していただけると思います。
サロン前半で千葉さんからお話をしてもらい、後半はそれに基づいての話し合いを考えています。
具体的な相談などお持ちの方は、相談を持ち込んでいただいても結構です。

みなさんの参加をお待ちしています。

○日時:2018年12月2日(日曜日)午後2~4時
○場所:湯島コムケアセンター
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
○話題提起者:千葉晃一さん(一般社団法人コレカラ・サポート代表理事)
○会費:500円
○申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)

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2018/11/13

■カフェサロン「ナチュラリストが見る社会の危うさ、あるいは自然界の面白さ」報告

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日本で暮らしているゴキブリは52種類もいて、しかもよく見かける室内のゴキブリは外来種だということをみなさんはご存知でしょうか。
そして日本に昔からいるゴキブリは、とても大切な仕事をせっせとやっていることを知っているでしょうか。

木村さんの「ナチュラリストが見る社会の危うさ、あるいは自然界の面白さ」は、ちょっとゆるいサロンと言いながら、とても充実した内容で、いろいろと目からうろこの話も多く、しかも日本の社会のあり方への、まさにナチュラリストからならではの本質的な問いかけがあったように思います。

印象に残っている話をいくつか紹介します。
人口の多い都市部の自然からは、ホトケドジョーが少なくなり保護の対象になっているが、少し離れた千葉の集落には今でもいくらでもいて、むしろ人口がいなくなってしまうとホトケドジョーもいなくなってしまうかもしれないという話は、とても示唆に富んでいます。
日本では自然と人間がうまく支え合って暮らしていることを象徴しています。

木村さんは、自然の保護と管理は表裏一体だと言います。
「自然」か「開発」か、ではなく、その「折り合い」が大切なわけです。
そんなことはわかっていると言われそうですが、実は私たちは頭ではそう思っていても、実はその「折り合い」において、小さな相手は軽視しがちのようです。
ダンゴムシの話で、木村さんはそれを教えてくれました。
この話はとてもいい話ですが、紹介すると長くなるので、これは参加者だけの特典として報告はなしです。

アフリカの動物保護には関心があるが、地元の自然にはあまり関心のない人が多いのではないかという木村さんの指摘にもとても共感しました。
木村さんは、環境保全は地元を愛することから始まるといいます。
その地元には、たぶんダンゴムシも入っているのです。
ちなみに私は昨日、わが家の庭で、ダンゴムシのミニ観察をしました。
みんなまだ、いわゆる「外来種」で、日本での暮らしはまだそう長くはないようです。

ところで、外来種と在来種に関しても、テレビ番組などで簡単に区別されて、外来種は悪者だ、駆除すべきだなどと扱われがちなことも木村さんはおかしいと言います。
そもそも外来種と在来種をどういう基準で分けるのか。
それに国家の枠組みに規制されて生きている人間と違って、そもそも生物は自由に移動し自然交配しているのですから、勝手に国籍を決めてもらいたくはないでしょう。
在来種に有害な外来種を殺処分するという発想は、その根底で、移民排斥にもつながる思想ではないかという話もありましたが、私自身そこまで深く考えたことがなかったので、はっとさせられました。

ちょっと似た話で恐ろしい話もありました。
最近は犬の「雑種」が「市場」で高値を呼んでいるそうです。
それは飼い犬が管理されすぎて、自然交配が行われないので、雑種が産まれにくいのだそうです。
生物の進化にまで介入しているわけです。
生物多様化を主張する人は多いのですが、本当にみんな生物多様化を望んでいるのか、と木村さんは問いかけます。

鳥獣害の話も出ましたが、これはそもそも日本から聖域がなくなってきたことと無関係ではないと木村さんは言います。
そして「聖域」と「人間界」の結界を守っていた「年寄」がいなくなったことも影響しているのではないかと木村さんは(たぶん)言ったような気がしますが、これは私にはとても興味のある話でした。

そもそも日本人は、生き物との付き合いが深い暮らしをしてきました。
日本に住む動物の名前もたくさんあります。
最近読んだ本には、アマゾンのある部族は、鳥はみんな「鳥」と呼ぶのだそうですが、日本にはたくさんの鳥の名前があります。
そうした多様な生物たちとの付き合いが、私たちの暮らしを豊かにしてきたのではないかと私は思っていますが、最近は、自然の中での生き物との付き合いが減っているのかもしれません。
実際に目にする小動物も少なくなってきました。

環境保全に取り組んでいるNPOの高齢化の話も出ました。
NPO活動の世代交代に関しては、とても大きな問題ですが、一度、サロンのテーマにしたいと思います。
もしかしたら、ここにこそ、個人と組織の問題、さらには社会のあり方や私たちの生き方を考える大きなヒントがあるように思っています。
ちょっと今回のテーマと離れますが。

木村幸一郎さんは「ハイパー・ナチュラリスト」です。
そもそも「ナチュラリスト」とは何者かという関心でサロンに参加された方もいます。
なかには、「ヌーディスト」と勘違いされた人もいましたが、木村さんのお話をお聞きして、私は「ナチュラリストは、自然と一緒に、お互いウィンウィンに生きている人」だと思いました。
木村さんはとても幸せそうです。
私も少しは「ナチュラリスト」的な生き方を目指していますが、小村さんほどにはまだ幸せにはなれていません。

他にも、マムシとの付き合い方とかSDGsの話とか、いろいろとありましたが、最後に一つだけ蛇足を書きます。
ゴキブリの話ですが、日本にずっと前からいたモリチャバネゴキブリは、森の枯葉を小さく噛み砕いて、それを微生物が食べやすいようにし、還元活動に寄与しているそうです。
家に棲む、あの嫌われ者の「チャバネゴキブリ」はどういう仕事をしているか木村さんに質問したら、人間には役立っていないので、見つけたら退治してもいいと言われました。
私もこれまでそうしていましたが、もしかしたらなにかとても大切な仕事をしているのではないかと思い直しました。
わが家のキチンも時々夜に出ているようですが、私が寝ている間に何かしているのではないか、そんな気がしてきました。
人間の見えないところで、人間に役立つ仕事をしてくれているのかもしれません。
ゴキブリもかわいそうな存在です。
今度、ゴキブリに出会わしても、バシッと叩き潰せないかもしれません。
さてどうなるでしょうか。

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2018/11/11

■節子への挽歌4063:たくさんの夢を見ました

節子
昨夜は8時過ぎに寝てしまいました。
疲労がたまっていたせいか、めずらしく4時まで目が覚めませんでした。
4時になっても起きられずに、また眠るでもなく起きるでもなく、2時間過ごしました。
それでもまだ疲労感が残っており、すっきりしません。
外が明るくなってきたので、起きてパソコンに向かっています。
大きな問題は起こっていないようでホッとします。
いい情報も入ってきていませんでしたが。

4時過ぎからうとうとする中で、いろんな夢を見ました。
夢はとても不思議で、前に見た夢の続きまで出てきます。
といっても物語の続きではなく、立負えば、サロンの夢を見たのですが、その準備をしようと思って冷蔵庫を開けたら、以前、誰かからもらったケーキが入っていました。
それは前の夢で見た記憶があります。
こういうことは時々あります。
しかし、その前に見た夢も、実際には今回の夢での「設定」かもしれません。

実際に入ったこともないのに、違う日に見た夢で行ったことのある場所が出てくることもあれば、前の夢で会ったことのある、知らない人に会うこともある。
以前よく見た洪水の夢の時には、同じ海辺の構造物に逃げ込んだ記憶もあります。
そうした「以前見た夢」の記憶もまた、実際にはその時に見た夢での「記憶」かもしれないと思い、一度、記録したこともありますが、たしかに前に見た夢と同じもの遭ったことも少なくとも一度はあります。
しかし、物語がつづく夢は、同じ日には見ますが、私の場合はたぶんありません。

夢と現実が反転している話は、小説などにはあるありますが、やはり私の場合の主軸は、この現実であることは間違いない。
しかし、時に、反転してほしいと思うこともあります。

肉体的な疲労感は少し軽減されましたが、昨日はいろんな夢を短時間に見たせいか、何かいろんなことが心に残っています。
まあ少し経つと、そうした夢のことはほぼすべて消えるのが通例なのですが、実にいろんな人に会いました。
久し振りに父親まで出てきました。
私よりも元気そうでした。
今日は節子は出てきませんでした。

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2018/11/09

■カフェサロン「大家族主義経営を考える―個人と組織の関係」のご案内(

西精工という会社をご存知でしょうか。
四国の徳島にある会社です。
「ホワイト企業大賞」や「日本でいちばん大切にしたい会社大賞」などを受賞し、「人間尊重型経営」で成果を上げていると話題になっている会社ですが、今回は、西精工を事例にして、これからの企業のあり方を考えてみたいと思います。

といっても、同社は四国の徳島にありますので、同社の方をお呼びするのは難しいのですが、幸いに最近、同社の経営に関する書籍が出版されました。
書名がちょっと長いのですが、「人間性尊重型大家族主義経営」(内外出版社)です。
西精工社長の西泰宏さんによる経営実践が生き生きと紹介されていますが、それだけではなく、前半部分で、天外伺朗さんが「ティール組織」モデルを踏まえて西精工の経営のポイントを解説しています。
逆に言えば、最近話題の「ティール組織」について、西精工をモデルに、天外さんの解説が行なわれているということでもあります。
そこで、ティール組織の考え方を具体的に考える意味でも、西精工を取り上げることにしました。

そこで、本書の編集に関わった上本洋子さんに、西精工の経営に関して話題提供してもらったうえで、「人間性尊重」と「企業経営」をキーワードにしながら、これからの企業のあり方や個人の働き方について、みんなで話し合えればと思っています。
参加する方はできるだけ事前に「人間性尊重型大家族主義経営」を読んできてもらえればと思っています。

みなさんの参加をお待ちしています。

〇日時:2018年12月5日(水曜日)午後6時半~9時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「大家族主義経営を考える―個人と組織の関係」
〇問題提起:上本洋子さん(自在株式会社)
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)

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■節子への挽歌4062:死後をどう生きるか

節子
中田さんの訃報はちょっと衝撃的でした。
そのせいか、今日はどうも精神的に安定感がないうえに、身体的な不調和音も感じます。
人間は実にもろいものだと改めて感じます。
まあ今日は寒いこともありますが。

昨日も新潟の金田さんからお手紙をもらい電話ももらいました。
電話で話していて、金田さんの今の状況がよく伝わってきました。
金田さんは元気がなくなると私に電話をかけてきます。
電話がある時は、実はSOSなのです。
私の声を聞くと元気になれると言っていたことがあるので、私も金田さんへの電話は元気に対応しなければいけません。
目いっぱい元気な声で対応していますが、正直、私自身もそう元気ではなく、金田さんの話を聞いていると私もそう違わないのにと思ったりしてしまいます。
人はそれぞれ問題を抱えておいて、それほど違わないというのが私の体験知なのですが、私がかつてそうだったように、自分の問題が膨らんでくると、他者のことは見えなくなるものです。

それにしても、中田さんの急逝は衝撃的です。
いつ私も同じようなことになるかもしれません。
死後をどう生きるか、それを真剣に考えなければいけません。

人は自分一人で生きているわけではなく、たくさんの人や物との関係の中で生を営んでいます。
ですから、死で、人生が終わるわけではありません。

それにしても、気のせいか、今日は頭が痛いです。
何ごとも起きなければいいのですが。
めずらしく今日は夜、ホテルでのパーティに参加しますが、今の私にはまったくの場違いなので、いささか憂鬱なのですが、これもまた生きる営みの一つなので、がんばっていこうと思います。
きちんと靴をスーツを身に着けて。

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■節子への挽歌4061:突然の訃報

節子
笹、メールを開いたら、松戸市の市議の中田京さんが急逝されたというメールが飛び込んできました。
つい先日、湯島のサロンに来た時にはあんなに元気だったのに、にわかには信じられない話です。
あの、分厚いファイルを私にもと言って渡してくれました。
松戸市での市議活動の報告のファイルでした。
なんで私にと思ったのですが、何かのメッセージかもしれません。

中田さんとは、緩やかなつながりでした。
出会いは伴侶の阿部さん(政治学者)が縁でした。
阿部さんとはリンカーンクラブで出会いましたが、私の話を聞いて、中田さんが湯島にやってきました。
市議になったばかりか、あるいは直前だった気がします。
知り合いたちに彼女を選挙で応援してほしいと連絡した記憶があります。

市議になってからも、私は何もできませんでしたが、毎月、市議活動の報告を送ってきてくれました。
こういう活動であれば、市議も必要だなと思っていました。
誠実で、主張はぶれず、行動も見事でした。

数年前に、松戸市で「関さんの森」問題が起きました。
環境保護グループの友人から一度見てきてほしいと連絡があり、久しぶりに中田さんに現地を案内してもらいました。
彼女のオフィスにも立ち寄りましたが、赤胴鈴之助のマンガの本が、政治関係の本の中にあって、それをこれはいいでしょうと自慢されたのを覚えています。

サロンに来た時に、今期で市議をやめると言っていましたので、もしやめたらあるプロジェクトを提案しようと思っていた矢先です。
あまりにも突然のことでいささか混乱していますが、1日前まで活動していたことをフェイスブックで見ていましたので、唖然としている状況です。

心よりご冥福をお祈りします。
また信頼できる友人を一人失会いました。

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2018/11/08

■節子への挽歌4060:時空の窪地に落ち込んでしまった気分


節子ますます時間の速度が速まっているようで、追いついていけません。
そこから抜け出したくても抜けられない。
「時」というのは、実に不思議な存在です。

時間と空間はつながっていると言われます。
高速で移動していると時間の進み方がゆっくりになるとも言われています。
ということは、もし活発に活動していると時間の動きは遅くなるのかもしれません。
忙しい時こそ、時間が早く進むと思いがちですが、私の体験では逆です。
最近の私は極度に暇なので、時間の進み方が異様に早いのかもしれません。
そのために時間破産に陥ってしまうわけです。
暇だと忙しくなる、というわけです。
このつながりは、ほかの人にはなかなかわかってもらえませんが、自分ではとても納得しています。
要は、どこかでバランスがとれていないのでしょう。
困ったものです。

畑に行こう行こうと思いながら実は行けていません。
今日は午前中は在宅なので、行こうと思えば行けるのですが、行く気がどうしても起きてこない。
なんだか、時空の見えない落とし穴に引き込まれてしまったようで、動くに動けないでいます。
いい天気なのですが。

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2018/11/05

■節子への挽歌4059:秋は不思議な季節です

節子
秋の時間は進み方がなぜか速いです。
注意しないとどんどん置いて行かれてしまいます。
11月も、もう5日です。
困ったものです。

10年以上前の本ですが、真木悠介さんの「自我の確立」という本を読みました。
そこにこんな文章が出てきました。

多くの植物は地下茎を水平に伸ばし、その一部が再び地上に分岐を成長して新しい幹と枝葉を形成している。竹林が多く一つの地下茎で結ばれていることはよく知られている。
クローバーの大草原が一つの地下茎で結ばれていることもある。この時この草原の全体をひとつの個体というべきだろうか? この見方に従うのなら、「せいぜい4個体ばかりのタンポポが北アメリカ全体の領地をめぐって互いに競争しているということになりそうだ」という。

私の畑の開墾作業は、まさに地下茎で結ばれた竹との戦いなので、このことはよくわかります。
地上に出ている笹竹をいかに切っても、すぐまた隣りから芽を出すのです。
植物には死がないのかもしれません。
群生している植物は個としての植物が群生しているわけではなく、そのすべてが一つの生命だとも思えます。
しかも、同種の植物だけではありません。
様々な違った植物が、実に巧妙に支えあいながら生きているのにも感心させられます。
そういうことに出合っていると、植物全体が共存共栄していて、その全体を一つの生命と考えたくなることもあります。

死という概念は、個としての生命体という概念とつながっています。
そういうことが、畑で植物と付き合っているとよくわかります。
農耕民族の死生観は、そこから育ってきているのかもしれません。

冒頭の秋の時間は速く進むとどうつながるのかですが、実は秋は時間は進まずに止まってしまうのではないかという気もするのです。
バラバラの時間ではなく、重なり合った時間。
今日も昨日も同じところにある時間。
ばらばらの生命ではなく、重なり合った生命。
私も節子も、そしてほかの人もみんな、同じ生命の一部。

秋はなぜか、そんなことまで考えさせられる不思議な季節です。

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2018/11/04

■カフェサロン「日本列島「法」改造論」のご案内

延期されていた神戸大学名誉教授阿部泰隆さんのサロンを11月26日に開催します。
前回参加申込みいただいた方には、直前の予定変更で申し訳ありませんでした。

日本のあり方を話し合うシリーズのサロンの案内です。
今回は、ゲストに神戸大学名誉教授の行政法学者・弁護士の阿部泰隆さんをお迎えして、「日本列島「法」改造論」という、いささか壮大なテーマでのサロンを開催することにしました。
阿部さんは、私の大学時代の友人ですが、毒舌・名言でも有名な、そして具体的な提案活動もしっかりとしている、曲がったことの嫌いな、国士的な学者です。
時に、阿部さんは「変人」とも評されますが、ご自分は「変人」を「変革の人」と読み替えて、変人であることを受け入れています。

「日本列島「法」改造論」というのは、10月に第一法規から出版される阿部さんの新著のタイトルです。
神戸在住なので、久しく会っていなかったのですが、遺言だと思って最後の本を書いたというメールが先週来ました(といっても、すでに40数冊出版していますが、これからも10冊は出版しないと死ねないといっています。http://www.eonet.ne.jp/~greatdragon/)
しかし、遺言であれば、読まないわけにはいかないので、読ませてもらうことにしたのですが、せっかくなので、多くの人にも知ってもらいたくなって、阿部さんに湯島のサロンをやってもらうことにしました。

予告案内の本の帯に「Dr.阿部の執刀開始!」とあります。
まだ出版されていないので、目次の原稿を送ってもらったのですが、なんと目次だけで28頁。
目次を読めば、内容がイメージできますが、いかにも阿部流の舌鋒厳しい、実に賑やかな内容のようです。
阿部さんによれば、「逆転の発想による法改革」によって、日本を変える提案だそうです。

第1章は「国会・内閣・裁判所のありかた」ですが、つづけて「社会問題・国民生活」「税制改革」「医療福祉」「環境保護」「大学」「その他身辺雑記」と広い分野にわたって論が展開されています。
しかも、そこには、与党独裁体制を許さない法システム、「国旗国歌は作り直せ」とか「オリンピックは無駄」とか、祝日も休日にするな(来年の10連休は大反対)、「命を大切にせず、医療費を無駄使いする厚労省」、さらには「バカほど儲かる医師・弁護士システム」、未亡人の再婚を邪魔する遺族年金、文科省は廃止せよなどといったことが書かれています。

「はじめに」も読ませてもらいましたが、たとえばこんなことが書かれています。
ちょっと長いですが引用させてもらいます。

社会科学者仲間では、福島の原発事故にもかかわらず相変わらず「原子力村」で、原発は安全であるという枠内の研究をしたり、阪神・淡路大震災や東日本大震災が身近に起きても我関せず、自分の「学問」に没頭したり、広島原爆の被災地にいながら、被爆者に寄り添うことなく、平和な学問をして偉くなっている人が少なくない。筆者には、彼らは民の苦しみなど知る余地もないように見える。
研究者は現実の裁判を追行していないので、裁判の不条理も知らない。まして、三行半判決で、何のまともな理由もつけずに闇から闇へと葬られ、人生や会社が破綻させられる無数の事件のことには関心を持たない。裁判官も、このようなことに責任を感じている者は多くはないと感ずる。
また、疑問を持たず、既存の資料を整理するだけの「業績」が多い。
その上、筆者の専攻の行政法学関係者は、役所からお座敷がかかるので、どうしても役所寄りの発想になりがちである。

とまあ、こんな風なのです。
阿部さんの人柄がかなり伝わってくるでしょう。
彼自身は、「とうの昔に御用学者を総撤退し、大学にも縁がないので、「しがらみ」がなく、文科省批判も含め、信念に従った発言をしている」と言っています。
まあ、しがらみがあっても発言してきたと思いますが(そのために社会の主流派から外されたと本人は言っています)。

今回は阿部さんから、どのテーマでやろうかと相談を受けましたが、腐ってきている日本国家を快刀乱麻に語っていただき、それをどう改造していけばいいかを話してもらったあと、当日参加した人たちの関心事に合わせて問題を掘り下げられればと思います。
ぜひ多くの人に参加して、議論を戦わせればと思っています。

〇日時:2018年11月26日(月曜日)午後6時半~9時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「日本列島「法」改造論」
〇問題提起:阿部泰隆さん(行政法学者・神戸大学名誉教授)
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)

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2018/11/02

■カフェサロン「お寺の跡取り息子の宗教観」のお誘い

「宗教を考える」サロンの第2弾です。
今回は、まさに正面から「宗教」に取り組んで、みんなで話し合ってみたいと思います。
話題提供してくれるのは、「お寺の跡取り息子」の小林永照さん。
東京の葛飾区にある青戸やくじん延命寺の若い僧侶(30代)です。

小林さんが話してくれるのは、宗教論でも仏教の話でもありません。
小林さんは「自発的な信仰心」から宗教の世界に入ったというわけでもなく、「お寺の跡取り息子」だからということで、18歳の時に「仏教」の世界に入ることとなります。
今だから言えるのですが、と前置きをした上で話してくれたのですが、この時の小林さんは「仏教」にも、そして「仏に仕える僧侶」にも意義を見出すことができなかったそうです。
さらに、もともと人と付き合うことが苦手ということもあって、最初は、その世界に馴染むことができずにいました。
時には、その様な自分を守るため他者を批判して、本当は寂しいだけなのに、どんどん人を遠ざけていったようです。
そのような悪循環の中で、自分の「救い」を求めてあがいていた、そんな10数年間があったと言います。
小林さんのお人柄がわかります。

というわけで、今回は小林さんの個人的な宗教(修行)体験と、そこからいま辿りついている宗教観(宗教の価値)のようなものを生々しく話していただき、それを材料に、個人にとっての宗教、そして社会にとっての宗教の意味を考えてみたいと思います。

いろんな意味で、魅力的なサロンになりそうです。
異教徒の方はもちろん、宗教嫌いの方もふくめて、いろんな人に参加してもらい、意見を交わしたいです。
ぜひ多くの人に参加してほしいと思っています。

〇日時:2018年11月22日(木曜日)午後6時半~9時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「お寺の跡取り息子の宗教観」
〇問題提起:小林永照さん(青戸やくじん延命寺僧侶)
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)

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2018/11/01

■節子への挽歌4058:豊かな暮らし

節子
久し振りの秋晴れです。
時評編に書きましたが。昨夜、「ある世捨て人の物語」を寝る前に読みだしタラ、面白くて、結局、全部読んでしまい、今日は寝不足です。
頭が働かないので、庭の整理を始めました。
節子はよくまあ、こんなにたくさんの植木鉢を育てていたなといつも思いますが、また今年の夏で、そのいくつかをだめにしてしまいました。
困ったものです。

一応、いまは、蝋梅、芍薬、牡丹など、いくつかは大事にするようにしていますが、それ以外はもうかなりめちゃめちゃになっています。
その3つは何とか回復しました。
もう大丈夫でしょう。

最近は花のほかに野菜の種も蒔いています。
今日は絶好の畑日和ですが、そして在宅なのですが、お昼時に、孫母娘がやって来ました。
娘がわが家の近くの歯医者に行っていますが、治療中、隣で静かに座っているそうです。
どうせなら私に預ければいいのですが、孫は私より歯医者さんが好きなのだそうです。
それにこのところなぜか孫から敬遠されています。
私が、頭をトントンとたたくのが嫌なのだそうです。
歯医者さんに、「おさむさん」とはうまくいっていますか、と訊かれて、孫はノーコメントだったそうです。
困ったものです。

その孫母娘も帰ったので、いまは私一人です。
畑に行こうかと思ったのですが、なんだか眠くなってきました。
畑に行くべきか、昼寝をするべきか。
「ある世捨て人の物語」の主人公ナイトも、もしかしたらこんな毎日だったのでしょうか。

静かで穏やかな、とてもいい日です。
こういう暮らしを、「豊かな暮らし」というのでしょうか。


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■「ある世捨て人の物語」

昨夜、図書館から借りてきた「ある世捨て人の物語」(マイケル・フィンケル著)を寝る前に読みだしてしまいました。
寝る前にちょっとだけ、と思っていたのですが、面白くてやめられずに、結局、全部読んでしまいました。
おかげで今朝は寝坊してしまいました。

この本は、誰にも知られず森で27年間暮らした男の話です。
主人公は、クリストファー・ナイト。
20歳のときから27年間、ほぼだれとも会わず、アメリカのメイン州の森にひとりきりで暮らしていたのです。
2013年4月に、本人の意に反して、「発見」され、話題になりました。
これほど長く一人で暮らしていた「隠者」は、著者の知る限りないそうです。

森の生活と言えば、思い出すのは『ウォールデン』(邦訳「森の生活」)を書いたソローです。
この本は、私も2回ほど読みましたが、「森の生活」とはあんまり言えないような気がしていました。
27年間、森で過ごしたナイトは、ソローは「本物の隠者」ではないと言ったそうですが、たしかにそうでしょう。
そんなことは些末な話ですが、この本はとても面白かったです。
「世捨て」とは、こういうことなんだろうととても納得できました。
そして、私にはできないなと改めて思いました。
私のことを、仙人とか世捨て人という友人もいますが、この本を読んだら、私がいかにそれとは真逆な人間かがわかるでしょう。
しかし、ナイトや著者のマイケルの気持が、ちょっとだけわかるような気がするのは、まだ少し救いがあるかもしれません。

とても面白いくだりがあります。

「ナイトはどうやら、自分のことを数少ないまっとうな人間のひとりだと思っていたふしがある。なぜ、金銭と引き換えにオフィスの狭いブースで一日何時間もコンピューターに向かって人生の盛りを過ごすのは容認されて、森のなかのテントでゆったり過ごすのはおかしいと思われるのか、彼には理由がよくわからない。木々を観察するのは怠惰で、それらを切り倒すのは仕事熱心だと言われる。ナイトは生活を営むために何をしていたのか。彼はひたすら生活していたのだ。」

私が思っていることと同じです。
私も、そういう生活をし、そういう仕事を目指しています。

もう一つとても気にいったことが書かれていました。
古代ギリシアの哲学者ソクラテスも隠者の志向がありますが、ソクラテスはどこでも裸足で歩き、このうえなく租末な食事しかとらなかったそうです。
この2つは、まだ私にはできていませんが、いま、そこに向けての途上です。
寒くなりましたが、まだ靴下や靴を履かずに頑張っています。

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