■節子への挽歌4059:秋は不思議な季節です
節子
秋の時間は進み方がなぜか速いです。
注意しないとどんどん置いて行かれてしまいます。
11月も、もう5日です。
困ったものです。
10年以上前の本ですが、真木悠介さんの「自我の確立」という本を読みました。
そこにこんな文章が出てきました。
多くの植物は地下茎を水平に伸ばし、その一部が再び地上に分岐を成長して新しい幹と枝葉を形成している。竹林が多く一つの地下茎で結ばれていることはよく知られている。
クローバーの大草原が一つの地下茎で結ばれていることもある。この時この草原の全体をひとつの個体というべきだろうか? この見方に従うのなら、「せいぜい4個体ばかりのタンポポが北アメリカ全体の領地をめぐって互いに競争しているということになりそうだ」という。
私の畑の開墾作業は、まさに地下茎で結ばれた竹との戦いなので、このことはよくわかります。
地上に出ている笹竹をいかに切っても、すぐまた隣りから芽を出すのです。
植物には死がないのかもしれません。
群生している植物は個としての植物が群生しているわけではなく、そのすべてが一つの生命だとも思えます。
しかも、同種の植物だけではありません。
様々な違った植物が、実に巧妙に支えあいながら生きているのにも感心させられます。
そういうことに出合っていると、植物全体が共存共栄していて、その全体を一つの生命と考えたくなることもあります。
死という概念は、個としての生命体という概念とつながっています。
そういうことが、畑で植物と付き合っているとよくわかります。
農耕民族の死生観は、そこから育ってきているのかもしれません。
冒頭の秋の時間は速く進むとどうつながるのかですが、実は秋は時間は進まずに止まってしまうのではないかという気もするのです。
バラバラの時間ではなく、重なり合った時間。
今日も昨日も同じところにある時間。
ばらばらの生命ではなく、重なり合った生命。
私も節子も、そしてほかの人もみんな、同じ生命の一部。
秋はなぜか、そんなことまで考えさせられる不思議な季節です。
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