■カフェサロン「『ホモ・デウス』が予告する政治の未来と民主主義」報告
話題の本『ホモ・デウス』が展望している近未来を踏まえて、「AIと民主主義」をテーマにしたサロンを、リンカーンクラブとCWSコモンズ村の共催で開催しました。
『ホモ・デウス』でのメッセージは簡単なメモにまとめて当日配布しました。
かなり主観的なまとめですが、こういう流れで整理しました。
① 認知革命によって「ホモ・サピエンス」が生まれた(「サピエンス全史」)。
② ホモ・サピエンスは創造主の神から解放されて、人間至上主義教(ヒューマニズム)を生み出し、自分たちの王国をつくりだした。
③ 自我の誕生により、「人間」は「個人」として自立し、「個人の尊厳」「人権意識」という考えが生まれた。
④ ホモ・サピエンスによるAIの創造により、人間中心の世界観はデータ-中心へと変化し、民主主義や個人の尊厳は意味を失う。
⑤ ホモ・サピエンスの一部は、種としてのホモ・デウスへ進化し、進化しそこなったホモ・サピエンスは消滅する。
少し詳しいメモは次のサイトにあります。
http://cws.c.ooco.jp/hd.htm
それに基づき、参加者で自由に話しあいました。
あまりにも話題は多岐にわたったので紹介は難しいですが、極めて主観的に出た話題を列記します。
Amazonがその人に合った本を推薦してきてくれるように、自分以上に自分のことを知っているAIが自分に最もふさわしい候補者を推薦してくれる。
そうだとすれば、そもそも選挙も代議士もいらないのではないか。
AIが中心となる社会の議員の役割は今とは全く違うのではないか。
そういう状況では「民主主義」や「個人の尊厳」はどういう意味を持つのか。
そもそもAIにとって人間は必要な存在なのか。
1%と99%の人間の対立の中で、AIはどちらに味方することになるのか。
対立の構図は、人間対人間ではなく、人間対AIになるのではないか。
AIに対して人間の強みは何か。
そもそも、進化したAIは機械なのか生命体なのか。つまりAIは人間によって操作される機械なのか、あるいは人間を「端末備品」とする新しい生命体なのか。
AIと人間が合体していくのが「ホモ・デウス」なのか。
すでに身体にチップを埋めだした人間が増えてきている。
私たちはすでに膨大なビッグデータによって嗜好さえも管理されつつあるのではないか。
人間は、サイボーグやホボーグのような新しい生命体に進化するのか。
その時には、今以上に大きな格差、たとえば永遠の生命を持つホモ・デウスとそれに隷属する使い捨ての人間とに分かれるのか。
AI中心の世界では、戦争も経済も変質する。
現在の政治は、ヒューマニズムを根底に置いて国民を守ることを目指しているが、AIが行なう政治の目的は何なのか。
そもそもAIが統治する世界では人間は存在しうるのか。
まあ、こんなような議論がありました。
いつものように収斂しない発散型の議論でしたが。
私は最近のサロンで時々話していますが、このままだとAIは人間を不要なものとしていくだろうと思っていますが(つまり科学技術の方向性が間違っている)、なかにはこれからも科学技術を軸に人間社会を進化させていくべきだという「重脳主義」を主張する人もいました。
美とか文化とか、あるいは論理を越えたひらめきによる英知がAIにはできないだろうという意見もありましたが、私はむしろそういう世界こそがAIの得意分野ではないかと思っています。
話を聞いていて思い出したのが、鎌倉時代に公権力の枠を超えて自由に生きていた「悪党」たちです。彼らは「網野史学」によれば、人の力を超えたものとのつながりをもっていたとされていたそうですが、現代の悪党はまさにAIとのつながりを得た人かもしれないとふと思いました。
近代において、社会の単位が人間から個人へと変わることで、ヒューマニズムの意味は変質したと私は思っていますが、AIの進化で、またヒューマニズムが変質するような気もします。
あまりにも深い話に陥りそうですが、AIの脅威には無関心ではいられません。
なにか欲求不満のままに終わったので、年明け後にもう一度、企画できればと思っています。
もうひとつだけ感想を加えれば、これまでの発想の枠組みを変えて議論することは難しいということです。
人間を超えていくかもしれないというAIですが、どうしてもAIよりも人間が上位にあるという見方から私たちはなかなか抜け出せずにいます。
それを改めて痛感したサロンでした。
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