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2018/11/24

■カフェサロン「お寺の跡取り息子の宗教観」報告

「宗教を考える」サロン第2弾は、「お寺の跡取り息子」の小林永照さんに、ご自分の物語を語ってもらいました。
小林さんは現在、寺小屋、地蔵の会など、お寺を舞台にしてさまざまな社会活動に取り組んでいますが、最初にそうした活動を紹介してくれました。
いずれも社会に開かれたとてもいい活動です。
こういう活動が広がれば、お寺はまた地域社会のセンターになっていくかもしれませんし、宗教の役割が見直されるかもしれません。
ところが小林さんは、こういう活動は格好いい話に聞こえるかもしれないけれど、それに取り組んでいる自分は、つい最近まで僧になったことに必ずしも納得できていなかったと、ご自分のことを語り始めました。

小林さんは、葛飾区にある青戸やくじん延命寺の長男として生まれました。
小学生の頃に得度はしたものの、特に仏教に強い関心を持ったわけでもなく、本堂の大日如来も、ただの仏像としてしか見えていなかったそうです。
大学で専攻したのは国際政治経済。小林さんの若き葛藤を感じます。
19歳の時に、真言宗の僧として灌頂を受けて正式に僧として自立したはずにも関わらず、どこかに納得できない自分がいて、「ぐちゃぐちゃ」していたということを赤裸々に話してくれました。
時には、なんで仏門に入って僧としての人生を歩まないといけないのかといった「恨み節」に陥ることもあったようです。
自分探しのために、社会人大学院に入り、そこで哲学者の内山節さんに出会います。
それから少しずつ小林さんの人生が変わりだします。
お寺で生まれ、そこで生活させてもらっている以上、お寺を活かして何か社会的な活動に取り組まなければという思いから、冒頭に話してくれたいろんな社会活動を3年ほど前から始めたそうです。
私が最初に小林さんにお会いした時に、小林さんからその話を聞いて、小林さんにいつかサロンで話してもらいたいとずっと思っていたのですが、その頃はまだ小林さんは「ぐちゃぐちゃ期」の最中で模索していたわけです。

小林さんの意識が大きく変わったのは、1か月ほど前の今年の10月です。
お父上と一緒に、ある親子の僧の灌頂に立ち合ったのだそうです。
灌頂というのは、諸仏と縁を結び、種々の戒律や資格を授けて、師の継承者となるための密教儀式で、小林さん自らも19歳の時に受けています。
その時にはまだ自分が僧になったという感激はあまりなかったそうです。
しかし今回は違いました。
ほかの僧の灌頂をお手伝いしただけなのに、灌頂を受けている若い僧を見守っている大日如来を感じたのだそうです。
それまでは単なる仏像だった大日如来が、若い僧のみならず、自らの行いも見守ってくれているという実感が突然にすとんと身心に入った。
大日如来を観じた小林さんは涙が出たそうです。
そして僧になってよかったと初めて心底から思ったといいます。

ぐちゃぐちゃの中で、行を修めていた小林さんにとっては一種の悟りなのでしょうか。
いまは客観的に自分を見ている自分も感じられるようで、自分を捉え直すことができたとおっしゃいます。
以前は、救いを外に求めていたが、いまは救いは自分の中にあると思えるようになったとも言います。
救いが自分の中にあれば、他者の救いにも寄り添えるかもしれません。

小林さんの物語を長々と勝手に書いてしまいました。
私が主観的に解釈しているところもありますので、小林さんからはちょっと違うよと叱られそうですが、まあ大筋はそう間違っていないでしょう。たぶん、ですが。

こんな話を踏まえて、話し合いも盛り上がりました。
クリスチャンも数名いましたし、仏教を信ずる人もいました。
無神論者もいたかもしれません。

小林さんは、宗教の教義よりも仏事や神事を通して仏や神の世界を学んできたと言います。
人間の普段の生活は神仏の世界とつながっていて、それが仏事に現われている。
大げさな仏事でなくとも、日常生活の中で手を合わせて祈ることがあれば、そこで仏の世界ともつながれるというのです。
小林さんにとっての修行は、まさに仏事や日常生活の行いの中にあるのでしょう。
しかし、今の都会の生活の中では、そうした体験の場は少なくなっているかもしれません。
先祖や死者とのつながりだけではなく、同じ時代を生きている人とのつながりさえもが失われてきている。
そして、人のつながりを失う中で、私たちはいろんなものを失ってきているのではないか。
人のつながりが失われていくなかで、他者への祈りも忘れだしている。
小林さんは、そうしたことを取りもどいていきたいと考えているようです。
それが、信仰につながっていく。
気づいてみたら、3年前から小林さんが自分のお寺で取り組んでいることは、まさにそれだったわけです。
お話を聞いていて、私は修行ということの意味の深さに気づかされました。

またまた勝手な解釈の報告になりました。
当日はもっと話題は広がっていました。
たとえば、仏教には修行はあるが、キリスト教には修行という考えはあるのか。
お寺や僧侶の役割は何なのか。
お寺は、困った時に相談に行く場所になっているか。
お寺にいくとどうして厳粛な気分になるのか。
大日如来を感じたというが、霊的な問題をどう考えるか。
震災後によく話題になる「幽霊」の話も出ました。

仏事に関する面白い話もありました。
お盆の迎え火の翌朝早く、先祖がいなくなったお墓にお供えをする風習が小林さんのお寺にはあるそうです。
留守のお墓にいる無縁仏にお供えするのだそうです。
仏事に込められた「つながりの思想」。
私も含めてサロン参加者はみんな初めてそういう風習を知りました。

小林さんのお話を聞いて、信仰や宗教は、与えられるものではなく、生活を通して出合えるもの
真摯に自分を生きることこそが信仰であり、宗教は、どんな宗教であろうと、そうしたことを考えさせてくれる存在であること。
修行とは、自分に誠実に生きること。
そんなことを気づかせてもらったサロンでした。
あまり言葉としては出ませんでしたが、「信仰」と「祈り」が今回のサロンの底流にあったような気がします。

できれば次回は、「信仰」や「祈り」を話し合うサロンができればと思っています。
現在、話の口火を切ってくれる人を募集中です。
よろしくお願いします。

Shugyo181122


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