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2018年12月

2018/12/30

■節子への挽歌4077:東尋坊のお餅

節子
今年もまた、東尋坊の茂さんからお餅が届きました。
節子との最後の旅行は福井県の芦原温泉でした。
その途中に東尋坊に寄った時に、偶然にも茂さんと川越さんに会ったのです。
それで茂さんたちのお餅もご馳走になりました。
そんなこともあって、節子がいなくなってから、茂さんの思いを実現するためにささやかな協力をしてきました。
茂さんたちは、東尋坊で自殺防止のための見回り活動をしているのですが、今年も30人以上をケアしたそうです。

電話をしました。
茂さんも川越さんも、いつものように元気な声でした。
節子がいたら、また東尋坊に行けたのですが、なかなか東尋坊に行く機会はやってきません。
茂さんたちにも3年ほど会っていませんが、来年は会いたいものです。

東尋坊で毎年、茂さんたちがみんなで一緒についたお餅はとてもおいしいのです。
豆餅やエビ餅やいろいろとありますが、どれも天下一品です。
茂さんたちの、思いがこもっているからです。

思いがこもるとなんでもおいしくなります。
早速に豆餅をいただきました。
節子にも供えさせてもらいました。

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■節子への挽歌4077:お正月の準備をしました

節子
年末休みの2日目は、大掃除と買い出しです。
まあ、娘の手伝いですが。
買い出しも、ユカが少しずつしてきているので、たいしたことはありません。
それに以前のようににぎやかな宴は予定していませんので、大した準備も必要ありません。
両親がいたころは大勢が集まりましたが、今は一番大勢で5人ですし、昔のようなメインディッシュがあるわけでもありません。
おせちも年々簡素になってきています。
節子がいたら、こんなのは正月ではないと叱られそうですが、まあわが家らしい質素さで、私としてはむしろ気に入っています。

節子も、正月ににぎやかな料理をつくるのが好きでした。
料理の買い物は運搬役でいつも付き合わされました。
花を活けるのもがんばっていました。
花を買いに付き合わされると、それだけ長い時間待たされました。
そんな年末は、もう味わえないのがさびしいです。

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2018/12/29

■節子への挽歌4076:快い身体の疲労感

節子今年も残すところ、3日になりました。
この3日は大掃除などのために、基本的に在宅するつもりです。
わが家は、衣食にはあまり頓着しませんが、家だけはみんなそれぞれにこだわりがありました。
家族4人が自己主張し合ったために、出来上がった家はだれにとっても、どこか違ったものになってしまいましたが、私はとても好きな家です。
節子との暮らしを想定していましたが、それはほとんど実現しないことになってしまったのが無念ですが。
節子がこの家をゆっくりと楽しむことは、残念ながらありませんでしたが、節子も多分気に入っていたでしょう。

広さだけは広い家です。
そこに今は、私と娘2人が住んでいます。
娘も私も、掃除好きではありませんから、大掃除となると大変なのです。
当初は、今年こそはきちんと掃除しようと思っていますが、だんだん、まあこのくらいでいいかと妥協し、そのうち、まあいつも生活するところでいいとなってしまうわけです。
節子がいたころに比べれば、大掃除ではなく、小掃除かもしれません。

いずれにしろ、今日は午前中は、その小掃除パート1で、午後は畑に行きました。
畑も放置しておくわけにはいきません。
花壇も枯れていた花をすべてきれいにし、そこにまたチューリップとフリージャを植え足しました。
畑も野草を抜き、ついでに家にあった、芽が出始めていたタマネギを植えてみました。
育つかどうかわかりませんが。
タマネギは秋に種をまいたのですが、それを忘れて、野草と間違って抜いてしまったようで、跡形もなくなってしまったのです。

さらに、来年に向けてまた開墾作業を始めました。
なにしろ笹竹が広がっていますので、これはハードな作業ですが、はじめだすと面白くてやめられません。
少しずつ継続して作業をしていると、野草も次第に分をわきまえてくれるような気がします。
がんばったおかげで、だいぶきれいになりました。

畑から帰宅したら、孫のにこが来たので、娘たちと一緒にまた畑に行きました。
ユカが手伝って、にこに大根を抜いてもらいました。
株も抜きましたが、大きくなりすぎていて食用には向かないようです。

いろんな煩わしいことを忘れて、今日は1日、心身を動かして、気持ちの良い疲れを久しぶりにもらいました。

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■おまけサロンの報告

今年はたくさんのサロンを開催しましたが、おまけのサロンまでやってしまいました。
参加の連絡は2人しかなかったので、人が来ない間は年末大掃除でもしていようと思っていたのですが、意外にも10人を超える人が来てくれました。
おかげさまで、定刻よりも早く予定より遅くまで、サロンができました。
メンバーは入れ替わりましたが、最初から最後までほぼ5時間をお付き合いしてくれた方もいました。
おかげで、年末大掃除は年越しになりました。
困ったものです。

話し合いは案内の通り、「社会はよくなっているのか、住みやすくなっているのか」を基調にいろいろと広がりました。
自分には生きやすくなっていない、社会はちょっとおかしい方向に行っているのではないかという意見が多かったように思います。
その根本には、みんな「余裕がなくなってきている」ということがあるのではないかという話も何回か出ました。
もちろんちょっといい話もありましたが。

私にとっては非常にいい話がありました。
今年からサロンに来てくれだした人が、「このサロンを知ったことが今年の事件のひとつ」と(たしか)言ってくれたことです。
サロン主催者としては最高に元気づけられる言葉です。

今回、私にとって初対面の人も2人参加しました。
そのおひとりは、今年の春頃に掲載された東京新聞の記事を読んでこのサロンに関心を持ってくれていたそうですが、やっと参加できたと言ってくれました。
もうひとりの初参加の人は、友人に教えてもらい、どんなサロンかわからなかったが参加してよかったと(たぶん)言ってくれました。
いずれも大いに元気づけられました。

そして、その3人の言葉で、私の考えは変わりました。
社会はいい方向に向かっているのです。
というわけで、おまけのサロンのおかげで、いろいろなことがあって、心身ともにめげることの多かった私にも、今年は「いい年」になりました。

社会がよくなっているか、自分にとって住みやすくなってきているか。
この問題設定が間違っていたかもしれないと、5時間近い話し合いを聞きながら、思い直しました。
社会をよくしたい、もっと生きやすい社会にしたいと思って、自分に何ができるかを考えることの方が大切だと考えなおしたのです。

そしてまた、誰かのちょっとした一言が、人を幸せにするものであるということも、改めて実感しました。
来年から、私も誰かを幸せにできるような話し方と知らない人にも話しかける姿勢をもっと身につけようと思います。
社会をよくするために、それが私にできる出発点のようです。

自分本位の報告になってしまいました。
これで今年の湯島サロンは終わりですが、参加されたみなさん、いつも長い報告を読んでくださったみなさん、ありがとうございました。
来年もまたサロンを続けますので、気が向いたら遊びに来てください。
みんなが生きやすい社会に向かうことを信じながら。

ちなみに、正月に悪性の風邪をひいたり、交通事故に合わなかったりしない限り、1月7日の午後、新年最初のおまけサロンを開く予定です。
湯島天神や神田明神に来る方がいたら、その真ん中ですので、お立ち寄りください。
先延ばしした大掃除をしている最中かもしれませんが。

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■カフェサロン「ケアプランって知っていますか? マイケアプランが18年間言い続けてきた思い」のお誘い

今年最初のコムケアサロンは、全国マイケアプラン・ネットワーク代表の島村さんに話題提供をお願いしました。

全国マイケアプラン・ネットワークは、介護保険のケアプランは自分で考えようという活動に長年取り組んでいる、介護保険利用者と家族、および賛同者のネットワークです。
詳しい活動内容はホームページをご覧ください。
http://www.mycareplan-net.com/

介護保険には、ケアプランの「自己作成」という制度があります。
つまり、介護保険の「ケアプラン」は、自分(あるいは家族)で作成することができます。
いうまでもなく、ケアプランは当事者が作るのが一番いいものになるでしょうが、ほとんどの人は、ケアマネージャーにプランづくりを頼んでいます。
自己作成などできるのかと思っている人も多いでしょうし、行政の窓口でも自己作成は勧められることはきわめて少ないからです。

介護の問題は老後の話ではありません。
自らの介護もさることながら、両親などの介護の問題もあり、いつ自分の問題になってくるかわかりません。
介護の問題で生き方を変えざるを得なかった人も少なくないでしょう。
しかし多くの人は、実際に問題に直面するまではあまり考えることがありません。
そして直面してしまうと慌てて目先の対応に追われてしまう。
行政やケアマネージャーのいう通りに「ケアプラン」をつくり、それに従ってしまう人がほとんどのようです。
しかし、それでいいのか。

普段から介護保険や介護制度のことを知っていれば、自分(家族)に合ったケアプランがたてられます。
一番適切なケアプランをつくれるのは、自分(家族)です。
さらに、介護保険のケアプランというよりも、若い時代から「ライフケアプラン」発想を持っていれば、いざとなっても慌てることはないでしょう。

そういう認識のもとに、島村さんたちは、介護保険がはじまった当初のころから、ケアプランは自分でつくろうと提唱してきたのです。

しかし、島村さんたちのがんばりにもかかわらず、どうもあんまり状況は変わっていないようです。
島村さんは、こういいます。
「私たちはずっと同じことを言い続けてきました。そのせいで周りの変化を肌で感じています。利用者の共感は増している気がしますが、ムーブメントにはならない。むしろ、国の政策との距離は広がっている気がします」。
ケアプランは当事者が中心になってつくるという、こんな当然のことがなぜ広がらないのか。
島村さんたちが18年間言い続けてきた思いを話してもらい、日本の福祉の問題や私たちの生き方を考えるサロンにできればと思っています。

ちなみに、島村さんたちが書いた「ケアプランを自分でたてるということ」という本があります。
私のホームページでも紹介しています。
http://cws.c.ooco.jp/books.htm#100207
とても読みやすい本ですので、是非お読みください。

ケアプランはすべての人につながっている問題です。
「ケアプラン」で苦労している人も、「ケアプラン」なんて知らなかったという人も、是非ご参加いただき、「ケアプラン」ってなんだろうかを、自分の問題につなげながら話し合いたいです。

〇日時:2019年1月27日(日曜日)午後10時~12時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「ケアプランって知っていますか? マイケアプランが18年間言い続けてきた思い」
〇問題提起:島村八重子さん(全国マイケアプラン・ネットワーク代表)
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)

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2018/12/28

■節子への挽歌4075:節子のおかげで人生がまた変わりそうです

節子
今日は今年最後の湯島です。
午前中に僧侶の中下さんと会いました。
中下さんは、私の生き方に影響を与えつつあります。
少しずつ世間から退出しようと思っていたのに、中下さんのおかげで、退出どころか、かかわりを深める羽目になりそうです。
なぜなら、中下さんは、私がこの20年取り組んできた「大きな福祉」の精神に共感して、私の思いを再び前に進めようと働きかけてくれているのです。
これに関しては、また少しずつ書くことになると思いますが、来年は「みんなの葬儀社」的な活動に取り組もうと思います。

節子の葬儀を終えた後、葬儀について考えたことがいくつかあります。
節子の葬儀は、残念ながら、節子が望んでいたスタイルとはちょっと違ったものになってしまったかもしれませんが、当日になって、少しでも私たちらしい葬儀になるように努力しました。

一番よかったのは、通夜の会葬の後、私と娘たちが、出口に並んで、一人ずつにお礼を言えるスタイルにしたことです。
葬儀社は最初反対しましたが、無理やり出口に椅子を持って行って、座ったのです。
もっとも私自身は、涙が堪えられずに、話すというほどではなかったのですが、会葬者全員に個々にお辞儀をすることができました。
告別式の時には、それはできませんでしたが、みなさんにお話しさせてもらえました。
それだけのことでも、会葬者とのつながりを実感できた気がします。

遺族も会葬者も、そういう心の触れ合える葬儀をしたいとずっと思っていましたが、まさか自らも葬儀を企画する側になるとは思ってもいませんでした。
しかし、中下さんから、「死を消費する時代」ではなく「死を活かす時代」にしたいと声をかけられて、何回か話しているうちに、私の意識も変わってきました。
「そう思ったらやればいい」というのが、私の基本姿勢のはずですが、葬儀に関しては、どこかで関われないと思っていたのです。
中下さんとは何回も会いました。
そして1か月ほど前に決めました。

節子がいたら、たぶんこういうことにはならなかったかもしれませんが、中下さんはいつも、節子の話をします。
中下さんはもちろん節子とは面識はありませんが、挽歌を通して節子を知っているのです。
言い替えれば、節子がいなければ、私は中下さんと会うことはなかったでしょう。
中下さんが、私に「みんなの葬儀社」を提案してくることもなかったでしょう。
中下さんとの縁を生み出したのは、節子です。

これも節子の思いかもしれません。
生きているときよりも、死でしまった後の節子のほうが、どうも私の生き方に大きな影響を与えているようです。

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2018/12/27

■節子への挽歌4074:「あったかな場」

節子
OTさんが、最近出版した新著を持って湯島に来ました。
先日湯島で開催した「私はなぜ湯島でサロンをやっているのか」の報告を読んで、直接、私に話したいと言って、やってきたのです。
OTさんは、数年前に独立して、組織開発をベースに企業経営のコンサルティングをしています。
私がまだ企業経営に関わっていた時代に私と知り合いました。
その頃の私の姿は、OTさんにささやかに影響を与えているそうです。
当時、OTさんは研究所やコンサルティングをする会社のメンバーでした。

OTさんが私に話したかったのは、節子にも少し関係があります。
OTさんは、まだ節子が湯島に来ていたころのことを話し出しました。
そして、湯島に人が集まるのは、その「あたたかさ」にあったというのです。
OTさんは、節子のこともおぼえていて、私たちが醸し出していた湯島は、あたたかかったと言ってくれました。
私には最高にうれしい話です。
湯島を、だれにでも「あったかな場」にしたいと思っていますから。
OTさんは、最近、対話が話題になっているが、対話の前に、まずは温かな雰囲気が大切だと言います。
あたたかな雰囲気のある場でこそ、効果的な対話が成り立つのだという意味でしょうか。
それが、湯島にはあった。
だから人が集まるのだと思うと、OTさんはいいます。
そして、そのあたたかさは、私だけではなく、節子がいたからこそだとOTさんはいうのです。
それを私に伝えたくて、忙しい年末なのに来てくれたのです。
最近になって、私もそのことに気づきだしています。

私が、企業経営に関して熱く語っていたことも、OTさんは話しました。
理屈ではなく実践なのだと、私が強く言っていたそうです。
ドラッカーの間違いについても、私が語っていたと覚えてくれていました。
その間違いとは「顧客の創造」の話です。
顧客の創造とは市場化にほかなりません。
今や社会全体が「市場化」してしまう新自由主義経済が世界を覆いだしていますが、それではドラッカーが批判しているナチスの二の舞になりかねないというのが私のドラッカー批判のポイントですが、OTさんはいつもそれを話してくれます。
実にうれしいことです。

気がついたら、2時間たっていました。
OTさんは、いま、あの頃の佐藤さんの年齢になった。
今度は私が次の世代に向けて佐藤さんの役割を果たそうと思うと言ってくれました。
私にはそんな思いは全くなかったのですが、少しは次の世代にも役立ってきたのかもしれません。
うれしい話です。
節子の話が出たおかげで、ちょっと目頭が熱くなってしまいました。

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■節子への挽歌4073:菩提寺のご住職が亡くなりました

節子
菩提寺の宝蔵院の先代のご住職が亡くなりました。
節子を見送ってくださった方です。

お世話になりだしたのは、父が亡くなった時です。
子どもが小学校の同級生だったので、節子がお願いに行ったのです。
以来、わが家の菩提寺になっていただきました。
その後、体調を壊され、息子さんが後を継ぎました。
節子の三回忌は息子さんと一緒に勤めてくださいましたが、以来、お会いしたことがなく、気になっていました。
お話ししたのは、節子の葬儀の時が最後でしたが、とても穏やかで、とても誠実な方でした。
父の葬儀の時のことを覚えていてくれたのもうれしいことでした。

冬は葬儀が多いのだと中下さんからお聞きしました。
冬に亡くなるのは、とても理にかなっているような気がします。
節子は9月に亡くなりました。
冬まで待てなかったのです。
節子の死は、やはり私には理にかなっていない死でした。

ご住職への感謝を、節子とともに念じました。

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2018/12/26

■節子への挽歌4072:「相棒」のダウン

節子
また挽歌が長いこと抜けてしまいました。
理由は「相棒」のダウンです。

「相棒」とは、パソコンです。
パソコンがダウンしてから挽歌が書けなくなってしまっていました。
別のパソコンもあるので、技術的に書けなくなったわけではありません。
さらにいえば、パソコンは坂谷さんが何回も来てくれ、結局、ハードデスクまで交換してくれたので、直ってはいるのです。
ですからその気になれば、書けないわけではないのです。

ではなぜ書いてこなかったのか。
昨夜、気がついたのですが、パソコンが「相棒」になっていると共に、節子への窓口になっていたからではないかと思います。

壊れたパソコンは私の仕事部屋にあるデスクトップのパソコンで、いつも起きるとまずはそこに向かい開いていました。
節子がいなくなってからしばらくは、毎朝、パソコンに向かって挽歌を書くことから1日が始まっていました。
当時のパソコンからはパソコン自体は代っていますが、今のパソコンは5年ほど使っていますので、私が使いやすいように育ってきています。
言ってみれば、私にかなり同調していて、たぶん別のパソコンに比べたら、操作性は数倍よくなっています。
マシンだけではありません。
デスクトップなので固定されていて、周辺も含めて「一体化」しているわけです。
そこに座るとなぜか落ち着くわけです。

パソコンが壊れたくらいで、なんでこんなに気が沈んでしまっているのか、自分でも意外だったのですが、このパソコンは私と同調していて、節子がいない今は、もしかしたら一番安心できる「相棒」になっていたかもしれません。

パソコンはハードデスクを更新してもらい修復しましたが、私が埋め込んできた「記憶」は消えてしまいました。
ですから同じパソコンなのに、どうも違うものになってしまった気がして、パソコンの前に座っても落ち着きません。
伴侶との別れとは比べようもありませんが、「相棒」との別れも立直りに少し時間がかかりそうです。

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2018/12/25

■カフェサロン「人はなぜ巡礼に向かうのか」の報告

今年最後のサロンは、これまでも数回、湯島のサロンで巡礼の話をしてくれた鈴木章弘さんの「人はなぜ巡礼に向かうのか」でした。

いつもながらの心があったかくなるような話が満載でした。
鈴木さんが最近読んだエリザベス・ダンの「幸福学」には、幸福になる3条件として、「人との交わり」「親切」「目の前のことに集中」が挙げられていたそうですが、巡礼はそのすべてを満たしてくれると鈴木さんは言います。

「人との交わり」に関して言えば、巡礼は一人で歩いている人が多いので、お互いに声をかけやすいし、かけられやすいそうです。
それに、短時間のちょっとした話なのに、普段とは違って、素直に心に入ってくる。
鈴木さんによれば、巡礼で歩き出すと、いつもは閉じがちの心が開かれるのだそうです。
たった15分話しただけなのに、それぞれの国に帰国後、メールのやり取りで、数年後に会うことになった人も少なくないようです。

「親切」もたくさん経験できるようです。
それも、親切にされることはもちろん、どうも自らも親切しやすくなるようです。
無償の「お接待」を鈴木さんも受けていますが、たぶん鈴木さんも同じようなお接待を無意識のうちにしていることでしょう。

「目の前のことに集中」は、まさに巡礼での日常そのものだそうです。
次の宿を目指して、歩くことに専念し、雑念は消えていくようです。

これまでの巡礼で体験した、そうしたエピソードをいろいろ紹介してくれました。
つまりは、巡礼とは幸せそのものに身を浸すことのようです。

今回のサロンの鈴木さんのお話は、ユーチューブで公開させてもらうことにしました。
前半が鈴木さんのお話です。
https://youtu.be/3zgTyLTRK2Y

話し合いもいろいろありました。
東日本大震災の被災地に今も通っている参加者から、被災地でも巡礼での体験と同じような経験をすることが多いという発言がありました。
私も同じような体験をしたことがありますが、被災地もまた聖地になるのかもしれません。
「災害ユートピア」という状況も生じることもよく報告されています。
かつての農村にはそんな状況が残っていたような気がするという発言もありました。

話し合いもユーチューブに含めましたので、ご関心があればどうぞ。

ひとつだけ気がついたことを紹介します。
サンティアゴ巡礼は、目的地がサンティアゴ大聖堂と決まっています。
その途中にも教会や聖地はあるのでしょうが、基本は大聖堂に向かっての「道」を歩くことです。
それに対して、四国遍路は、各地のお寺をめぐることが目的です。
目的地を目指して歩き続ける巡礼と目的地を訪ね歩くことで満行となる巡礼。
その違いにちょっと興味を持ちました。

レジメに鈴木さんは、こんなことも書いていました。
巡礼者の精神を持つと人は変わるのではないか。
たとえば、「心が洗われ、身体から毒素が抜ける」「とらわれや思い込みに気づく」「笑顔になる、元気になる」「自分を再発見し、人生に新しい視座が生まれる」「内面が変わり、人生が変わる」というわけです。
たぶんこれは、鈴木さんの体験そのものなのでしょう。

最後に鈴木さんは、サンティアゴ巡礼の途中のスペインの教会におかれていた「巡礼への垂訓」に書かれていた文章を紹介してくれました。
「巡礼はコミュニティを生み出します。他者を受け入れるコミュニティを。他の人がどう旅路を歩いているかに興味を持つコミュニティを。お互いに与え、受けるコミュニティを」。
これを聞いて、ちょっと巡礼に出かけたくなりましたが、湯島は巡礼宿のようなものだから佐藤さんは巡礼に行かなくてもいいと言われました。
それに、行くべき人は自然と招かれるとも聞いたことがありますが、残念ながら私はまだ招かれていないのです。
招かれたら出かけるつもりですが、早く招かれないと体力が対応できなくなるかもしれません。
今生では招かれないかもしれませんが、今回、鈴木さんの話をお聞きして、巡礼者の精神を少しだけ分けてもらえました。
来年はいい年になるでしょう。

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2018/12/23

■ローラさんの辺野古基地に関する発言騒動

タレントのローラさんが辺野古基地に関して発言したことが話題になっています。
今朝もテレビのワイドショーで、タレントたちが話題にしていましたが、こんなこと自体が話題になること自体が私にはおかしく感じます。

これに関しては、同じくタレントの高木美保さんの反応が、私の気持ちに一番合います。
ちょっと長いですが、ネットからの記事を引用させてもらいます。

そろそろ日本もやっぱり有名人とかね、芸能人とかの政治的発言はタブーっていう、その発想を変える時代なんじゃないかと。 つまり、インターネットで今回のもそうですけど、世界と繋がるわけですよね。「世界の中で、日本だけが鎖国状態になる考えかたでいていいのかな」と思うし。 政治的発言は別に「政治家を倒そう」とかいうことではなくて、「この国をよくしたい」それから「政治家にもよくなってもらいたい」…そういう純粋さを、私はローラさんから感じるんですね。

それから、ローラさんの今度の発言は「辺野古の自然を守りたい」っていうメッセージだけではなくて、もう1つの大事なメッセージとして「自分が勇気をもっていうべきこと、伝えたいことをちゃんと伝えようよ」「ハッピーに伝えようよ」って。

「それはとっても自分を強くするし、幸せな気分にするよ」っていうことを伝えているわけで、1つは環境のため、1つは生きかたを…パワーをみんなに注入してるっていうのかな。両方の…私は素晴らしさがあると思っていて。

私も同じように感じます。

もう一つ、共感した発言がありました。
爆笑問題の田中さんが、同席していたタレントのローラ発言批判に対して、「タレントの活動にはすべて何らかの政治性が含まれている」と明言しました。
これもまったく同感です。
私たちの日常の行為は、すべて政治に繋がっています。
同時に美しい海を残したいというローラさんの思いは、難しい理屈以上に大切なことだと思います。
政治の原点は、そういうところにこそ、置くべきだと私は思います。

芸能人は、芸能人である前に人間なのです。
立場上、自由にものが言えないなどということがあってはなりません。
それはすべて「言い訳」であって、誠実な生き方ではありません。
誠実であることの対象は、職務にではなく,人間としてでなくてはいけません。

タレントという言葉もは嫌いですが、まだ人間でいつづけている人がいて、ほっとします。

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2018/12/20

■人がつながっていけば社会は変わっていくでしょう

先日の私のサロン(「なぜ私は湯島でサロンをしているか」)の報告を読んだ、NPOファミリーステーション・SACHIの高橋雅栄さんからメールをもらいました。
もう15年ぶりほど前にサロンをしてくださった方です。
高橋さんは、長年、子育てサロンの活動を続けています。
ご自身の子育てを終わってからも、です。

以下、その内容の一部を紹介させてもらいます。

私の思いも、かなりの確率で佐藤さんに共感します。
特に、みんな「自分」をしっかりと生きるのがいいのではないかと思っています。
というところは、私が今日みんなと語って来た主軸となるところです。

自分を生きることをママがやって見せることが子育てで、子どもは子どもの人生を生きるのだから、ああしろ、こうしろなんて必要ない。
親は言うほど偉いわけではないのに、親になったら子どもに指図するのが親だと思うのは違うと思う。
ましては、支援者の立場にある私たちは、もうただただ利用者さんの不安や、悩みに耳を傾けて必死で話を受け止めるのが務め。寄り添って、共感することが精一杯です。
の、はずです。

喜んで人さまの土台となる。
それが出来ない日は、利用者さんの側になって支えてもらえるからこのサロンを始めたんだよ、という話を今日の集まりでしてきました。

22年の子育てサロンの活動を通してエンパワメントされて元気になったママは2500組以上、年、市の出生数の10%の方が私たちと出会っています。
毎年新たに支援団体が生まれています。
元気になって、自分らしく生きる道を見いだして、起業した方は10組以上。
サロンにブースを出して、起業を考え中の方が15組います。
子育て支援の分野は、20〜25年前には、子育て支援という概念すらなかったほどですが、今は、自治体が子育てサロンを運営しています。
私は、サロンで、社会はちょっとは変わるよなぁと思う一人です。
こうあるベキ!とか言って
何かと闘って生きるより
隣の人と知り合って、助けて!と言える関係を作った方が、子育てしながら自分らしく生きていくことが出来るなぁと思います

以上です。
こういう活動が少しずついま広がっていると思います。
社会はきっと変わっていくでしょう。
来世が楽しみです。

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■全国マイケアプラン・ネットワークの例会に参加させてもらって思ったこと

先日、全国マイケアプラン・ネットワークの例会に参加させてもらいました。
私はメンバーではないのですが、立ち上げ時にささやかに応援をさせてもらいました。
このグループは、介護保険のケアプランを自分で作ろうという利用者と家族、および賛同者のネットワークですが、介護保険のケアプランを自分たち(要介護者や家族)で「自己作成」することを広げていこうと活動に長年取り組んでいます。
詳しい内容はホームページをご覧ください。
http://www.mycareplan-net.com/

ホームページにも書かれていますが、ケアプランづくりをケアマネジャーに任せるかどうかが一番の問題ではありません。
なにがなんでも「自己作成」というこだわりはないのですが、ただ自分たちの問題なのだからしっかりと当事者意識を持ってケアプランづくりに主体的に取り組もうということを大切にしているのです(私の解釈なので間違っているかもしれません)。
ですから、介護保険のケアプランというよりも、もっと広義な「ライフケアプラン」発想を広げていこうとしているのです(これも私の解釈なので間違っているかもしれません)。

私が関わらせてもらったのは、その立ち上げ時ですので、もう15年以上前です。
途中でも一度、研究会に参加させてもらったので、順調に進んでいるなと思っていました。
その時、私は「介護の社会化」は「介護の市場化」なのではないかと話させてもらいました。

久しぶりに例会で、現状の様子を実感しました。
あれ!っと思いました。
全国マイケアプラン・ネットワークのがんばりにもかかわらず、どうもあんまり状況は変わっていないような気がしたのです。
いやむしろますますおかしくなってきているのではないか、とさえ思いました。
全国マイケアプラン・ネットワークが、ではありません。
社会の動き、がです。

このグループは、私が考えている理想的なグループのひとつだったのですが、時代の大きな流れには勝てないのでしょうか。
ちょっと気分的にへこんでしまいました。
NPO活動について、改めてまた少し考えてみようと思います。
私にできることが見つかるかもしれません。

ちなみに、全国マイケアプラン・ネットワークの代表の島村さんたちが書いた「ケアプランを自分でたてるということ」という本があります。
私のホームページでも紹介しています。
http://cws.c.ooco.jp/books.htm#100207
とても読みやすい本ですので、是非お読みください。
また例会には兵庫県からマイケアプラン研究会の北島さんも参加されていましたが、北島さんも「リアリズムの老後」(かもがわ出版)を出版されています。
副題が、「自分らしい介護とマイケアプラン」です。
またホームページでも紹介させてもらおうと思っています。

介護の問題は老後の話ではありません。
社会のあり様に繋がっている「みんなの問題」です。
来年、島村さんたちに湯島でサロンをお願いしようと思います。
まあ引き受けてくれるかどうかはわかりませんが。

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2018/12/19

■カフェサロン「人を大切にする経営」のお誘い

個人と組織の関係を考えるサロンを今年も継続的に開催します。
今年最初のテーマは、昨年末の西精工の事例にもつなげる形で、「人を大切にする経営」を選びました。
問題提起して下さるのは、長年、「人を大切にする経営学会」のメンバーとして活動してきた桝谷光洋さんです。
桝谷さんは、IT系の会社の営業職として10年近く働いた後、元上司と一緒にネットサービスの企業を立ち上げました。
3.11を契機に、いろいろと思うことがあって、法政大学の社会人大学院に入り、「日本でいちばん大切にしたい会社」などの著書で評判の坂本光司教授の研究室で中小企業経営を学びながら、日本全国の企業視察や調査などを行ってきました。
視察した会社は約300社、企業調査した会社は約1000社。
数十名のゼミ生の一人として坂本先生との共著も7冊あります。
その間、いろいろと考えることが多かったようで、2018年3月に大学院は卒業し、現在は「人を大切にする経営学会」のメンバーとして活動しながら人生の方向を模索中です。

桝谷さんは、自らは会社経営の経験がないので、経営を語っていいのかとの迷いもあるようですが、経営者でないからこそ、見えるものも少なくありません。
いまもなお、生き方を模索しているようで、そのあたりも含めて、桝谷さんが一人称自動詞で語る「人を大切にする」とは何かにも、私は興味があります。
そんなわけで、今回は、「全国のいい会社に学ぶ〈人を大切にする経営〉とは」をテーマに、桝谷さんにお話をお聞きして、「人を大切にするとは何か」「経営とは何か」「働くとは何か」「会社とは何か」などを、自分の生き方につなげながら話し合えればと思っています。

会社関係者ではない人の参加も大歓迎です。

〇日時:2019年1月23日(水曜日)午後6時半~9時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「人を大切にする経営」
〇問題提起:桝谷光洋さん(いい会社アドバイザー:人を大切にする経営学会所会員)
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)

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2018/12/18

■官民一体となって原発輸出を進めてきた?

三菱重工や日立製作所は、政府と一体となって進めてきたトルコの原子力発電所の建設計画を断念する方針を固めたという報道がありました。
日本の原発輸出事業は、よく「官民一体」で進められていると表現されます。
官民一体で進めてきたとしたら、その「民」には少なくとも私は入っていません。
私は、日本においては「民」、つまり「国民」ではないのです。
これまで何回もこのブログでは書いてきていますが、改めて書きたくなりました。

社会は「公」と「私」で構成されているといわれていました。
「公」と「私」は時々、「パブリック」と「プライベート」とも表現されます。
しかし、「公」はパブリックなのか。「私」はプライベートなのか。

「公」の主役は政府で、「私」の主役は企業です。
であれば、「公私」などいわずに、「官民」というのが適切でしょう。
となると、官民で社会が構成されているとは言えません。
なぜならそこに私たちの生活社会がないからです。
つまり「官民」とは民を統治する側の概念であり、しかも「官尊民卑」という言葉があるように、要するに「官」のことなのです。
そこには「人民」という意味での「民」はもちろんですが、「国民」という意味での「民」すら含まれません。
アメリカ憲法はpeopleという言葉を使っていいますが、日本国憲法の英語表記のpeopleをなぜか日本政府が「国民」と訳してしまいました。
“people”と「国民」とは、全くと言っていいほどの違いがあると思います。

「官民」とは違う私たちの現実の「生活社会」は公でも私でもない「共」の社会です。
平たく言えば地域社会、近代西欧の言葉を使えば「市民社会」です。
私は、それを「コモンズ」と呼んでいますが、要は、peopleが支え合いながら暮らしているリアルな社会です。
それが、大きな政府や大きな企業によって、縮小され片隅に追いやられていたのが、明治維新から最近までの日本かもしれません。
地域社会の主役であるべき自治会は行政の下請けの端末組織になり、期待のNPOもまた、同じように行政の下請けや企業の類似物になってきているというのが、私の現状認識です。
もちろん、主体的に活動している自治会やNPOもたくさんありますが、大きな流れはどうもそういう感じではないかと思っています。
これに関しては、かなり前のものですが、小論があります。
○コモンズの視点から発想の流れを逆転させよう
http://cws.c.ooco.jp/commonnsronbun1.htm
○私の視点「NPO支援 資金助成よりも活動支援を」
http://cws.c.ooco.jp/npo-toukou2.htm

ところで、日本の原発輸出が各地で頓挫している理由は、採算が取れないことです。
まともに考えれば、原発事業は経済的に成り立ちません。
日本でもそういうことは、私が知っている限りでも1980年代にはかなり明らかになってきています。
原発事業が保険の対象にならなかったことを考えれば、最初から分かっていたことです。
しかし、「官」が「民」(大企業)には有無を言わさずに、「安全神話」を、それこそ「官民一体」となって広めてきたのです。

官民だけで社会や世界は構成されているわけではないのです。

「民営化」とか〔〈介護の〉社会化」とかいう言葉に騙されてはいけません。
それらはすべてpeopleの資産を誰か個人に貢ぐことを意味しているのかもしれません。
社会を構成している主役は、people、私たち生活者なのです。
少なくとも現在は、という意味ですが。

官民一体には私は断じて入っていません。
官民が横暴な行為をするようなことがあれば、沖縄の人たちを見習って、それに抗わなければいけません。

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2018/12/17

■カフェサロン「私はなぜ湯島でサロンをやることになってしまったのか」報告

「私はなぜ湯島でサロンをやることになってしまったのか」をお話しさせてもらうサロンには20人を超える方が参加してくださいました。
私のことを、「新興宗教の人」とか「某国の諜報機関の人」とか、「謎の人」と思っている人もいたようで、私の正体を見極めるために来たという人も複数いて、私としては大いに反省させられました。
私ほど自らを開示していて、「謎」とは無縁な人はいないと自負しているのですが、疑いをもたれるような生き方をしていたようで、反省しなくてはいけません。
念のために言えば、もちろん私は新興宗教や諜報機関とは無縁です。

テーマに関していえば、いろんな人が一人の人間として心を開いて触れ合う場こそが、私が目指している、「誰もが気持ちよく暮らしていける社会」を実現するためには、「一番効果的」だと思っているので、サロンを続けているという話をさせてもらいました。
サロンを始めた経緯も含めて。
デモや革命や壮大な思想よりも、信頼し合える人のつながりが育っていくことが効果的だというのが、私が50年以上かかってたどり着いた結論なのです。
それで社会は変わるのか、という指摘も受けましたが、むしろ、それ以外では変わらないというのが私の考えなのです。
もっともそんな「ゆるい方法」ではすぐには変わらないでしょう。
でも50年か100年たてば、変わるかもしれませんし、それでも変わらなければ、その方法は間違っていて、きっと誰かが別の方法で変えていってくれるでしょう。
そう確信していることが、「私が湯島でサロンを続けている」理由なのです。
残念ながら、参加者のみなさんにはあまり納得してもらえなかったかもしれません。
しかし、社会は「変えるもの」ではなく、「変わるもの」なのです。
そして社会は私も含めてみんなでつくっているものですから、たとえばその一部である私が「変われば」当然ながら私が変化した分だけ社会は間違いなく変わるのです。
その信念で私はこの30年生きてきています。

最近の私の活動を紹介しながら、こうした話をさせていただきましたが、そこにいろんな問題提起を含ませてもらいました。
たとえば、みんな「たこつぼ」生活をしていませんか。
たとえば、社会は「公と私」で構成されているわけではなく、もうひとつの社会があること。
たとえば、「コモンズ(共有地)の悲劇」は問題の捉え方が間違っていること。
たとえば、社会問題を各論的に解決しようとするところに問題があるのではないか。
たとえば、稼ぐこと(労働)と働くこと(仕事)は違うのではないか。
たとえば、働き方改革ではなく生き方を問いなすことが必要なのではないか。
たとえば、自分にできる「変える」対象は、自分だけではないのか。
そして、過去生や来世を想定して生きれば、子孫や先祖のことが視野に入ってきて、目先の私欲に惑わされるような生き方ができなくなるのではないか。
などなどです。

どれか一つにでも引っかかってもらえればと思いながら、全体としては、全体を起点に考える時代は終わり、個人を起点にした社会や組織を目指す時代が来たことを伝えたかったのです。
そしてそのためには、みんな「自分」をしっかりと生きるのがいいのではないかと。

最後に私の未来の話とサロン以外の話もほんの少しだけ話させてもらいました。
これは私にはとても重要な話ですが、参加者には蛇足だったでしょう。

話し終わった後に3つの問いかけをさせてもらいました。
Q1:みなさんの仕事はなんですか? (稼ぐ労働のことではありません)
Q2:みなさんの一番の資産はなんですか? (お金だけが資産ではないです)
Q3:いま幸せですか? いつ幸せになるつもりですか? (明日はないかもしれません)

これに関して話し合ってほしかったのですが、むしろ違う話に転じてしまいました。
まあそれが湯島のサロンの特徴なのですが。

厳しい指摘も受けました。
内容が盛りだくさん過ぎて、受け止めにくかった。
佐藤さんは社会を変える意図はないのだと思った。
いずれも正しいですが、こういう発想をやめていこうというのが私の姿勢なのです。
簡単に言えば、一人称自動詞で生きようというのが私の信条です。
佐藤さんは犬型ではなく猫型だという人もいましたが、犬にもたぶん私型の犬もいるでしょう。
私は猫も犬も一括して捉えることができないのですが(血液型や国民性も私にはあまり受け入れられません)、犬も猫も、外国人も、それぞれに個性がありますので、そうした「個性」と付き合う生き方を大切にしています。
参加者の一人は、私のことを「我慢強い人」と言ってくれましたが、一方で、私は「わがままな人」だと言った人もいるような気がします。
たぶんいずれも、その人にとっては正しいでしょう。
でも私は、いずれでもないと思っています。

小学校時代の同級生の女性や会社時代の後輩から私に関するエピソードが紹介されました。
一つは私の悪い性格、一つは私の良い性格のようでしたが、いずれも私の記憶には全くない話でした。
人間の過去はどうも自分と他者とでは違うようです。

最後に、このサロンの報告は本人がまとめるのかと質問がありました。
サロン主催者としての責務であり特権かなと思っていましたので、「はい、私が自分に都合のよいようにまとめます」と答えましたが、参加者でもし報告をしてくれる人がいたら、もちろん大歓迎です。
まったく違った報告になるかもしれません。

それにしても長い私の話を我慢強く聞いて(読んで)くださったみなさんに感謝します。
なお当日の話はいつものように近藤さんが録画してくれましたので、メーリングリストのメンバーには公開させてもらうかもしれません。
そこにたぶんパワーポイントが出てきますので、お時間が許せば、それを見てもらえればと思います。
よほどお暇であればですが。

少なくともあと3年は湯島のサロンは続けたいと思っています。
まだ買っていないですが、明日にでもたぶん宝くじを買う予定なので、当たったら「みんなの喫茶店」を開いて、そこで最期を迎えたいと思っています。
葬儀を頼む人ももう決めました。

ちなみに言い忘れましたが、今回のサロンは熊本の宮田さんがわざわざ送ってくれたコスタリカのコーヒーでした。
宮田さん、ありがとうございました。
Osamu181


Osamu183


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■おまけサロン「社会はよくなってきていると思いますか」のご案内

巡礼のサロンを今年最後のサロンにしようと思っていたのですが、年の終わりにもう1回、おまけサロンをやることにしました。
そう思いついたのは、先日の上本さんのサロンで上本さんが次のようなことを話したからです。

昔は、人を押し分けて乗り降りする朝の通勤時の電車が嫌いだった。
でも最近、電車で足を踏まれたら、大丈夫ですかとあやまられた。
周りへの配慮ができる余裕が生まれてきているようで、社会はよくなってきているように思う。

たしかにそんな気もします。
しかし、その一方で、最近は生きにくいという人も少なくありません。
いじめとかあおり運転とか、ヘイト活動とか暴力事件とか、自殺とかメンタルダウンとか、なんとかハラスメントとか、そんな話も以前よりも増えているような気もします。
海外で暮らしていた友人が、日本に戻ってきて日本人は大人も子どもも表情が暗いという話もよく聞きます。

社会はよくなっているのか、人間はやさしくなってきているのか。
みなさんはどう思われるでしょうか。

そこで今年最後のおまけサロンは、「社会はよくなってきているのだろうか」をテーマで、雑談会的なサロンをしたいと思います。
それに加えてですが、昨日、私が話題提供するサロンをさせてもらいました。
たくさんのことを話したので理解できなかったという人がいました。
確かにその通りで、話したいことを聞き手の都合など考えずに話してしまいました
困ったものですが。
しかし話の中にいろんな「ひっかり的な問題提起」は埋め込んだつもりです。
それでもし昨日のサロンに参加されて、この点を突っ込みたいという方がいたら、それも大歓迎です。

年末の忙しい時なので参加は難しいと思いますが、あえて仕事納めの日に当たる12月28日とし、開催時間を午後から夜にかけての5時間をとりましたので、時間が許す時に、気が向いたらお立ち寄りください。
いつものように出入り自由です。

なお、年末はそんな暇はないという人も多いと思いますので、1月の縁カフェはやめて、恒例の第1月曜日の7日は同じような主旨での「おまけサロン」を開催する予定です。
たぶん、ですが。
これは別途ご案内します。

〇日時:2018年12月28日(金曜日)午後3時~8時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「社会はよくなってきているのだろうか」
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)

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2018/12/15

■カフェサロン「坊言サロン」のお誘い

湯島サロンのメンバーの西坂さんが、昨年、「きみはそのままでいいんじゃないか」を出版しました。
お寺の掲示板に書かれている「言葉」(それを西坂さんは「坊言」と命名しました)を集めて、そこに西坂流の感想を書き加えた、とても読みやすくて面白い本です。
この本に関しては、私のホームページで紹介させてもらいました。
http://cws.c.ooco.jp/books.htm#181209
紹介文の最後に、次のようなことを書かせてもらいました。

この本を材料に、近いうちに湯島で、「坊言サロン」を開こうと思います。
近くのお寺で、気になる「坊言」を見つけてきてもらい、みんなでそれを持ち寄って、「坊言」品評会もやれればと思っています。

予告通り、そのサロンを開催します。
最初に、「坊言」命名者の西坂さんに少しだけ話してもらい、その後はみんなでそれぞれが見つけた「坊言」を紹介し合って、話し合いができればと思います。

年末年始は寺社を回る機会もあるでしょうから、是非掲示板を見て、「坊言」コレクションをしてみてください。
不幸にして、面白いものに出合えなかった場合は、湯島のサロンでぜひ面白い坊言に出合ってください。
また面白い坊言に出合えたけれど、サロンには参加できないという方は、ぜひ私あてに、見つけた坊言とその感想を送ってください。
当日みなさんに紹介させてもらいます。

面白くて、学びの多いサロンになるかもしれません。
保証はしませんが。

〇日時:2019年1月19日(土曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「お寺の掲示板の「坊言」品評会」
〇問題提起:西坂和行さん(ライター&坊言コレクター)
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)


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2018/12/14

■なぜ制度は複雑になるのか

怒りをぶつけるついでに、もう一つだけ。
まあ氷山の一角的なものですが。

消費税増税のイメージを緩和するために政府は様々な制度を考えだしています。
もしかしたら私のような低所得者には得になるような制度ができるかもしれないなどという思いが、時に一瞬、頭に浮かびますが、そういうことは絶対にないのです。
たとえ10万円のばらまきの対象になったとしても、喜んではいけません。
一見得になるようなものこそが危ういのです。

それは極めて簡単なことでわかります。
制度ができるたびに、その運用コストがかかるのですが、それは私たちの生活を豊かにしてはくれません。
いわゆる「行政コスト」が余計にかかるだけですが、行政コストには必ず業者が寄生していますから、その業者の利益もまた、私たちの生活を豊かにすることには使われません。
いずれにしろ、税金が無駄な使われ方をされ、私たちに役立つことには使われなくなるのですから。

消費税は極めて複雑になりそうですが、複雑にすればするだけ、消費者は得をしたか損をしたかわからなくなります。
これもおそらく大きな目的でしょう。
しかし間違いないことは、複雑になるだけ無駄な仕事やコストがかかるということです。
そして無駄なものでも、それが何かの生産につながれば、経済成長率を高めるという効果もありますから、政府にとっては好都合なのです。

これは政府だけの話ではありません。
私のところには、世界の困っている人を支援するためにチョコレートや絵葉書やCDを買ってほしいという話がよく来ます。
なかには当然私がそういうものを買うだろうと思っている人もいます。
私は、むしろそういう行為には極めて否定的です。
確かにその売上金の一部は困った人のところに届くかもしれません。
しかし、その少なくない部分は、そうした「商品」を生産するために、またそういう活動を知らせ販売していくために、使途されます。
しかしそういう「商品」はほとんどの場合、「無駄なもの」が多いのです。
それに、生産するためにどれほどの資源を無駄にし、エネルギーを浪費したか。
そういう無駄なものをつくる世界の経済構造が、飢餓を生み出し難民を生み出しているのです。
それに加担する気にはなれません。
むしろそうした活動をしている人を見ると、こういう「善意の人」が一番罪深いとさえ思えてしまいます。
もっと本当に実のある活動をしてほしいと思ってしまうわけです。

ふるさと納税も無駄の極みです。
行政職員がそんな活動をするのは、私に背任行為としか思えません。
税金ってなんだかわかっているのでしょうか。

それにしても消費税増税は迷惑な話です
欧州の先進国の事例を少しは学んでほしいです。
無駄をなくすだけで、純粋の税収は増えるかもしれません。
ますます税金を払いたくなくなってしまう人が増えるかもしれません。
しかし節税が奨励されるお国柄ですから、こんなことを言っても始まらないでしょうね。
喜んで税金を負担する国になってほしいです。

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■唯一の解決策なんて政治にはありません

今日は非常に機嫌がよくありません。
自宅のパソコンが壊れて困っているからかも知れませんが、今日はテレビを見ていると、蹴とばしたうなるくらい腹が立つ言葉遣いが多いのです。

辺野古土砂投入が始まりました。
作業をしている人を見ていて、この人たちは何も考えないのだろうかと思いますが、まあ人はそれぞれですから、その人たちの立場も理解しなければいけません。
そうしなければ、安倍さんと同じことになりますから。

私が腹立たしいのは、菅官房長官が記者会見で、「辺野古が唯一の解決策」と言ったことです。
「唯一」の解決策などということは政治の世界にはありません。
そもそも唯一の解決策があるのであれば、政治など不要です。
政治というものを知らない人が官房長官にいることに腹が立っているわけです。

もう一つ腹が立つことがあります。
根のこの話をしているのに、いつも「普天間」の問題をだし、それがセットであると説明することです。
これは一種の恫喝だと私は思いますが、それはそれとして、それをそれぞれ解決していくのが政治です。
つまり問題の捉え方が、いかにもご都合主義的です。
これと「唯一の解決策」発想はつながっています。

時間がないので、急いで書いたので、これまた漏れが多いでしょう。
あとで書き直すかもしれませんが、まあ憤懣の少しを吐き出しました。

しかし取り返しのつかないことが始まってしまった。
なんでこんなに急ぐのか。
自民党には、まともな人はいないのでしょうか。

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■動いている時だけが運転しているとは恐ろしい話です

あおり運転事件の判決には驚きました。
止まっているときは運転とは言わないそうです。
どう考えてもおかしいでしょう。
しかしある弁護士はテレビで、「市民感覚には合わないかもしれないが、法的に言うとそうなる」と話しています。
この発言に、法曹界の専門家のおごりを感じます。
法律を市民感覚に準拠して解釈するのが法律の専門家の使命のはずです。
どう考えても理解できない。
運転とは何かを少し真面目に考えてほしいです。

運転は動いたり停止したりする行為です。
デジタル的に言えば、動いているときも止まっている状態の連続という捉え方さえありますが、それはともかく、停止中の行為は運転中の行為ではないというのはおかしいでしょう。

しかも、市民感覚には合わないかもしれないが、法的に言うとそうなるなどと白を切るに至っては許せません。

多くの人は、専門家は正しいと思いがちですが、そんなことは全くありません。
私の感覚では、いわゆる専門家には、知的でさえない人が圧倒的に多いのです。
いや怒りのために少し言い過ぎました。
反省。
しかし、お上だから、専門家だから、東大出だから、国家資格を持っているから、などということに騙されてはいけません。
その正しさを、みなさんも今年はたくさん体験したでしょう。

物事が正しいかどうかは絶対的な基準などありません。
その時代の多くの人が納得することが、その時代においては正しいことの基準です。
市民感覚こそが、正しさにとっての一番の準拠になるのです。
しかし、それだと混乱も起きかねないので、安定度を高めるためにつくられたのが成文法です。
しかし、その解釈は時代によって柔軟に対応できるように、解釈の余地があり、それを託されているのが司法関係者なのです。
彼らが基準にするべきは、法文としての法律ではなく、市民感覚なのです。

私が大学の法学部で学んだことの、それがすべてです。

テレビを見て、あまりにも馬鹿げた判決なので、とりあえず思いつきで書いてしまったので、きっと冷静になったら後悔するでしょう。
しかし、第一印象はとても大切です。
直感的に感じたことの方が、私の人生においては正しかったことが少なくありませんので。
冷静になって考えることは、往々にして悪しき洗脳の結果であるからです。

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2018/12/13

■節子への挽歌4070:自分もパソコンも少し酷使しすぎました

節子
2日間ほど、時間があると、ほぼすべてホームページの整理作業に集中していました。
今年の2月以来、ほとんど週間記録とお知らせだけの更新だったので、たとえば挽歌のインデックスも更新せずにいました。
毎週少しずつに時間をとって更新しておけばよかったのですが、それをさぼってほぼ1年間放置していたわけです。
毎週やっておけばさほどの負担感はないのですが、まとめてやると大変です。
できることは早くやっておくことという節子の教訓を思い出します。

ところで、その作業の過程で、この挽歌の番号がずれていることに気づきました。
ずれだしたのは3月頃からです。
ブログの番号も直すことにしましたが、これがまた面倒なのです。
ともかく細かな単純作業の繰り返しです。
作業負担もさることながら、パソコンへの負荷もかかるようで、2時間を超えたころから、次第にパソコンの反応が遅くなりました。
そして夜、パソコンがまたおかしくなったのです。
そしてついに動かなくなりました。
いささか酷使しすぎたのかもしれません。
今朝も2時間ほど、いろいろと試してみましたが、ダメでした。
せっかく、坂谷さんに直してもらい、好調だと思っていた矢先です。

私の仕事がパソコン依存型になっているため、これはかなりにパニックです。
さてさてどうするか。
年末になってから、どうも問題が起きやすくなってきています。
困ったものです。

実は昨日は、日中、兄が新しいパソコンを買ったので、その操作を教えに行っていました。
帰宅して夕方から自分のパソコン作業に集中していたのですが、皮肉な話です。
ホームページやブログの記事の修正はかなり細かな作業なので、目も疲れますが、それ以上にパソコンも疲れたのかもしれません。
私は複数の作業をパソコンに並行してやらせる習癖があります。
待ち時間がもったいないからですが、それがよくなかったのでしょうか。
人間の場合は、複数のことを同時並行的にやると認知症予防にいいと言われていますが、パソコンは違うようです。

今はオフィスのパソコンで挽歌を書いていますが、自宅のはしばらくはだめかもしれません。
今朝の様子では、かなりパソコンも怒っているようです。

さてさて機械と付き合うのも大変です。


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2018/12/10

■カフェサロン「対話で感得するインド占星術」のご案内

2019年最初のサロンは、年のはじめにふさわしく、「対話で学ぶインド占星術」を選びました。
知識ベースのサロンではありません。
インドの聖地ヴリンダーヴァンにほれ込んでツアーガイドをしている、ヴェーダ占星術師でもある、千葉和江(Kazue Kishori Chiba)さんにお願いしました。
千葉さんはせっかくならと、いろんな人が参加しやすいように、休日と平日に2回にわたって開催してくださることになりました。
それぞれが独立していますので、いずれに参加しても大丈夫ですし、両方出ていただいてもいいと千葉さんはおっしゃっています。

千葉さんによれば、インド占星術はその人の運命を読み解き、心を平安にし、豊かに生きることを目的としているのだそうです。
私は自らの運命を知りたいとは思っていませんが(知ったら壊したくなりそうですから)、心を平安にしてくれるのであれば、それは最高にうれしいです。
最近はなぜか、心は平安ならず、ですので。

参加者の関心次第で、インドの宇宙観、聖地での生活などの話にも広がるかも知れません。
千葉さんは、それもまたよしと言ってくださっています。
千葉さんは毎年インドに渡航し、現地でも生活しているようですので、生きた情報をお聞きできそうです。

ところで、実は私はまだ千葉さんにはお会いしたことがありません。
千葉さんの伴侶である、もう一人の千葉さん(先日サロンをしてもらいました)から千葉和江さんの活動のことをお聞きして、サロンをしたくなりました。
というのも、今年はなぜかヴェーダに魅かれて、久しぶりに本を読んだりしていたからです。
和江さんが帰国したのをいいことにお願いしたら、すぐに引き受けてくれました。
こんなに話がトントンと進むとは思っていませんでした。
サロンを聞く前から私の心には平安が訪れた感じです。
運命も見透かされているかもしれません。

千葉さんは、「どんな方がこの話題に集まるのか大変興味がありますし、日本の書籍やウェブでは手に入らない生の情報をお届けするのが楽しみです」と言ってくださっています。

さてどんなサロンになるか。
みなさんのご参加をお待ちしています。

〇日時:
1回目:2019年1月12日(土曜日)午後2時~4時
2回目:2019年1月17日(木曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「対話で感得するインド占星術」
〇問題提起:千葉和江さん(ヴェーダ占星術師)
〇会費:500円
〇申込先:どちら(あるいはいずれにも)に参加するか明記のうえ、佐藤修(qzy00757@nifty.com)までメールください。


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■おまけサロン「社会はよくなってきていると思いますか」のご案内

巡礼のサロンを今年最後のサロンにしようと思っていたのですが、年の終わりにもう1回、おまけサロンをやることにしました。
そう思いついたのは、先日の上本さんのサロンで上本さんが次のようなことを話したからです。

昔は、人を押し分けて乗り降りする朝の通勤時の電車が嫌いだった。
でも最近、電車で足を踏まれたら、大丈夫ですかとあやまられた。
周りへの配慮ができる余裕が生まれてきているようで、社会はよくなってきているように思う。

たしかにそんな気もします。
しかし、その一方で、最近は生きにくいという人も少なくありません。
いじめとかあおり運転とか、ヘイト活動とか暴力事件とか、自殺とかメンタルダウンとか、なんとかハラスメントとか、そんな話も以前よりも増えているような気もします。
海外で暮らしていた友人が、日本に戻ってきて日本人は大人も子どもも表情が暗いという話もよく聞きます。

社会はよくなっているのか、人間はやさしくなってきているのか。
みなさんはどう思われるでしょうか。

そこで今年最後のおまけサロンは、「社会はよくなってきているのだろうか」をテーマで、雑談会的なサロンをしたいと思います。

年末の忙しい時なので参加は難しいと思いますが、あえて仕事納めの日に当たる12月28日とし、開催時間を午後から夜にかけての5時間をとりましたので、時間が許す時に、気が向いたらお立ち寄りください。
いつものように出入り自由です。

なお、年末はそんな暇はないという人も多いと思いますので、1月の縁カフェはやめて、第1月曜日の7日は同じような主旨での「おまけサロン」を開催する予定です。
これは別途ご案内します。

〇日時:2018年12月28日(金曜日)午後3時~8時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「社会はよくなってきているのだろうか」
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)

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■節子への挽歌4068:寝室があったかです

節子
寒くなりました。

不思議なことがあります。
節子がいなくなってから、数年たってから気が付いたことがあります。
冬の寝室があまり寒くないのです。
そればかりではなく、あまり暗くならないのです。
普通は逆になるのではないかと思うのですが、なぜかそんな気がしまう。
最近は、節子がそうしてくれているという気がします。
寒くなっても、なぜか以前よりも寒くない。
あったかな空気が寝室を包み込んでいるようです。

そういうことに気づきだしたのは、たぶん七回忌を終えた頃からだと思います。
その頃から、体調も良くなりました。
いや正確には、いろんなことが気にならなくなったというべきでしょうか。
たしかに年齢と共に身体的機能は劣化していますが、いずれも気にならなくなりました。

今朝も寒い朝です。
しかし家中に何かあったかさが残っている。
きっと節子が守ってくれているのでしょう。

1週間ぶりに般若心経をきちんとあげました。
最近、おしまいの真言中の真言だけですましてしまうようになっていました。

なかなかリズムが戻りませんが、今年も残すところ3週間。
がんばって節子への挽歌も挽回しようと思います。

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2018/12/09

■「坊言」サロンの予告です

年が明けたら「坊言」サロンを開きます。
年末年始にお寺に行ったら、そこの掲示板に面白い言葉がないか探してみてください。

昨年出版された本ですが、「きみはそのままでいいんじゃないか」(西坂和行 電波社 1200円)を読ませてもらいました。
筆者は湯島のサロンにも時々参加する西坂和行さんです。
この本のことは以前もお聞きしていました。
西坂さんは、あることがきっかけで、お寺にある掲示板に掲げられている「言葉」に関心を持ち出したそうです。
意識してお寺の掲示板を読むと、そこには実にさまざまなメッセージが書かれていることに改めて気がついたそうです。
そうした言葉は、必ずしもそのお寺の住職のオリジナルではないのですが、その言葉を選んだ視点にはそのお寺の住職の思いが込められています。
そこで西坂さんは、そうしたメッセージに「坊言」と命名しました。
お坊さんから社会に向けてのお説教メッセージです。
なかには、意味がよくわからないものもあったようで、そういう時には西坂さんはお寺に飛び込んで、ご住職に話を聞くようになったようです。

そうした「坊言」がたくさん集まりました。
それで、印象的なものを選んで、そこに西坂さんの感想を書き込んでまとめたのが本書です。
タイトルは「きみはそのままでいいんじゃないか」。
これは、西坂さんがたくさんの「坊言」から得た「悟りの言葉」かもしれません。
いや、「悟れなかった悟り」の言葉というべきかもしれませんが、まあそれはそれとして、本書に紹介されている100の「坊言」は、それぞれに実に示唆に富むものです。
そして、西坂さんの解説も、とても面白いです。
ちなみに、書名になった言葉は、秋田市にある西善寺に掲示されていた坊言だそうです。

本書の帯に「悩みの9割はこれで解決!」とありますが、それはちょっと保証しかねますが、本書を読むと、「悩みもまた人生を豊かにしてくれるかもしれない」ということに気づけるかもしれません。
そうすれば、悩みなど解決する必要はないと開き直れるかもしれません。
なにしろ「きみはそのままでいいんじゃないか」なのですから。

こんな紹介だと本書の面白さが伝わらないといけないので、実際の坊言をいくつか紹介しましょう。
「×も45度回せば+になる」
「ハードルは高ければ高いほど、くぐりやすくなる」
「できないのですか、やらないのですか」
「親のいうことを聞かぬ子も、親のまねは必ずする。
「人生が行き詰まるのではない、自分の思いが行き詰まるのだ」
「「政治家が悪い、官僚が悪い、評論家が悪い」と云いながら、それにテレビワイドショーを喜んで観ているお前はもっと悪い!!」
「貧乏とは少ししか持っていないことではなく、無限に欲がありいくらあっても満足しないことです」
「にぎり拳では握手は出来ない」

どうでしょうか。
ちょっと興味を持っていただけたでしょうか。
しかし本書の面白さは、こうした坊言を西坂さんがどう受け止めたかです。
どう面白いのか、それは本書を読んでもらうしかありません。
人生に悩んでいる方も、悩みに気づいていない幸せな方も、気が向いたら是非お読みください。
珈琲2杯のお金と珈琲2回飲む時間で、たぶん読めるでしょう。
とても読みやすく、人によっては人生にとってのかけがえのない示唆がもらえるかもしれません。もっとも、人によっては単なる暇つぶしで終わるかもしれませんが、それは保証の限りではありません。

この本を材料に、近いうちに湯島で、「坊言サロン」を開こうと思います。
参加者に、近くのお寺で、気になる「坊言」を見つけてきてもらい、みんなで「坊言」品評会もやれればと思っています。
年末年始に寺社を回られたら、是非掲示板を見てください。

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■パリは燃えていくのか

パリが燃えています、いや、これからかもしれませんが。
50年前を思い出します。

1968年は、私が人生を変えた1年前です。
1960年代は大きな歴史の岐路だったような気がしますが、それが象徴的に表れたのが、いわゆる「68年革命」です。
対抗文化が元気だったその時代を、20代でありながら逸脱もせずに時代の流れに沿って生きた私としては、いささかの悔いもありますが、いろんな意味で影響を受けたことは間違いありません。
対抗文化讃歌とも言われたチャールズ・ライクの「緑色革命」は、私の生き方に指針をあたえてくれた1冊です。

ちなみに、映画「パリは燃えているか」は、1944年のパリの話です。
その24年後に、再びパリは燃え、そして今またパリは燃えています。
しかし、その燃え方は、あまりに違います。

1968年に比べれば、インターネットの発達で、いまのほうが世界同時に燃え出してもおかしくありません。
しかし、1968年とは大違いで、各地での若者の炎はつながらない。
一番燃えてもおかしくないはずの日本では、燃えようともしません。
たぶんどこかで何かが変わっているのでしょう。
アラブの春とかいろいろありましたが、結局、ネットは「燃えるのを防ぐ」手段になってきているのかもしれません。

68年革命から50年目にして起こったパリの炎のゆくえには関心があります。
日本でお国会議事堂前でのデモは盛んです。
しかし、国会に向かって叫ぶのは、向きが違っているのではないかと私には思えます。
野党もまた、国会の中でいくら騒いでもあまり効果は期待できないどころか、パワダウンにしかならない気もします。
燃える材料は、国会にはない。

野党は国民にこそ呼びかけてほしいです。
どうして野党議員は、国民に呼びかけないのか。
たぶんこれまでの政治の枠組みの中でしか考えていないからでしょう。

パリは燃えるのに、なぜ日本は燃えないのか。
テレビを見ながら、そんなことを考えています。

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2018/12/07

■ソフトバンク通信障害騒動に思ったこと

昨日、4時間半ほど、ソフトバンク系の通信障害が発生しました。
私もソフトバンク系なので、影響を受けたのでしょうが、実際にはその時間はスマホを使用していなかったので、何の影響もありませんでした。
しかしテレビ報道を見て、いろんな人が困った状況になっていたことを知りました。
現代人は予想以上にネットに生活の多くの部分を依存しているようです。
まさに私の感覚では「組み込まれてきている」という感覚です。
便利な仕組みを活用しているつもりが、いつの間にかそれに従属して拘束されてしまうように、関係が逆転してしまっていることもあるでしょう。

便利なものを手に入れれば入れるほど、何か問題が起こると困ることも増えてきます。
私自身も、たぶんそうした仕組みにかなり組み込まれてしまっているはずです。
便利なものは、同時に恐ろしいものでもあることを忘れてはいけません。
改めて生き方を問い直そうと思っています。

ちなみに、「便利なもの」の最たるものは、お金かもしれません。

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■節子への挽歌4067:私は半分彼岸に住んでいるのかもしれません

節子
なにから書きましょうか。
しばらく書いていないので、まあいろいろとありますが。
もっとも、書こうとなるとたいていのことは思い出せません。
書きだせばどんどん思い出してはくるのですが、最近はやはり思い出せないことが多くなりました。

今朝、節子のお姉さんと電話で話しました。
元気そうでした。
福井に住んでいるのですが、急に寒くなって、明日は雪が降るかもしれないと言っていました。
今年は私も福井には行けずに会う機会がありませんでした。
いつも野菜を送ってくれるので、何か送りたいのですが、何を送っていいかわからないのでいつも悩みます。
節子ならすぐに何を送ればいいかわかるのでしょうが。

昨日は新潟の金田さんから電話がありました。
新潟ももう雪でしょう。
雪は高齢者には結構大変のようです。

今朝は兄から電話がありました。
林檎が届いたので持っていくというのです。
内にも林檎が届いていたのですが、もらうことにしました。

昨日は宇部に行ってきた人がお土産を持ってきてくれました。
彼女が宇部に行くきっかけを私がつくったからでしょうか。

火曜日には花かご会の山田さんが、恒例のカレンダーを持ってきてくれました。
久し振りにみなさんとも会っていないので、翌日、我孫子駅前の花壇に行きましたが、残念ながら今週は作業日ではなかったようで、誰もいませんでした。

今日のお昼は高須さんと食事です。
高須さんは私たち夫婦が仲人をした人です。

そんなこんなで、それなりにいろんな人に支えられて、ほどほどに元気です。
彼岸ほどではないかもしれませんが、現世もいい人ばかりに取り囲まれています。
しかしテレビで見る現世は、いろんな問題で覆われています。
もしかしたら、私はもうすでに半分彼岸に住んでいるのではないかとさえ思います。

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■カフェサロン「大家族主義経営を考える―個人と組織の関係」報告

久し振りの企業経営をテーマにしたサロンは、今回は徳島にある西精工株式会社の事例をベースにして、個人と組織の関係を考えるサロンでした。
西精工は、「ホワイト企業大賞」や「日本でいちばん大切にしたい会社大賞」などを受賞し、「人間尊重型経営」で成果を上げていると話題になっている会社です。
最近、西精工の経営を紹介した「人間性尊重型大家族主義経営」(内外出版社)を編集した上本洋子さん(自在株式会社)に、同社の紹介をしてもらいました。
西精工の現場にも行ったことがある内外出版社の関根さんも参加してくれました。
最初に先ず、上本さんから西精工の紹介をしてもらいました。

社長の西さんは、東京の広告代理店で働いていましたが、会社の後継者候補だった従兄弟が病気で急逝したため、急遽、会社を継ぐことになり、徳島に戻りました。
入社してわかったことは、業績はいいものの職場風土にいろんな問題があることでした。
どうにかしなければと思っている矢先、西さんご自身が腎臓病になってしまい、1年間の闘病生活を余儀なくされてしまいます。
病気回復後、会社の中の気の流れを変えたいと決意し、掃除や挨拶からの風土改革を始めたものの、なかなか思うようにはいきません。
そしてさまざまなドラマが始まっていくのですが、これはぜひ本を読んでください。

同書には前半で、西精工と重ねながら最近話題の「ティール組織」のことが紹介されています。上本さんは、そのエッセンスも話してくれました。
「ティール組織」は話題になっているわりにはその実体がなかなかわかりにくい「組織モデル」ですが、個人と組織の関係を考える上では大きな視点を提起しているように思います。

上本さんのお話の後、話し合いが始まりました。
最初に私から、西精工の会社現場の雰囲気を質問しました。
本やテレビで描かれている話と実際の現場とは大違いの会社が少なくないことをこれまで何回も経験しているからです。
たとえば西精工では、毎朝1時間の朝礼が行なわれていますが、その雰囲気はどうなのか。
朝礼にも参加したことのある関根さんから即座に答えが返ってきました。
社員の表情が輝いていて、みんな楽しそうに話し合っていたというのです。
工場の雰囲気もとてもいいそうです。
本の記述と実態は違っていないことを、私は確信しました。
社員の顔は嘘をつかないからです。

本にも書かれていますが、会社を死に場所にしたいと言っていた社員の話に、そんな会社があるのだと驚いた人が一人ならずいました。
会社が、その人にとって、自分の生きがいを満たしてくれている場になっているということでしょう。
しかし、その一方で、そんなに会社べったりでいいのだろうかという違和感を持った人もいたかもしれません。
それではかつての「会社人間」と同じではないか、と。
そこで、「家族」ということの意味が話題になりました。

本のタイトルは「大家族主義経営」ですが、西精工社内では「家族主義」という言葉はあまりつかわれていないようです。
ここで「大家族主義」という言葉に込めた意味は、社員のことは家族の一員のように、最後までしっかりと面倒を見るとともに、仕事の上での上下関係を人間としての上下関係にせずにお互いに支え合う関係を大事にしようということではないかと思います。
「家族」という言葉には、拘束的な面や他者を排除するような面もないわけではありませんが、西精工にはそうしたことはないようです。
たとえば工場周辺の掃除にしても、ただ工場周りだけではなく、まちなかにまで掃除を広げているようですが、そこに象徴されるように、家族ファーストではないのです。
西さんの祖母の言葉が、とても示唆に富んでいます。
「社員さんが250人おったら、×(かける)4せなあかんのよ」。

西さんは、経営とはみんなの幸せを追及することだと考えています。
宮沢賢治の「世界ぜんたい幸福にならないうちは、個人の幸福はあり得ない」を思い出します。
それは、同社の行動指針にも明確に表現されています。
そこで大切にされているのは、「つながり」とか「コミュニティ」です。
決して閉じられた「家族主義発想」ではないのです。

西さんは、主体者は社員で、社長はサポートする人だと言っているそうです。
そこには人を信頼して任せる、各人の常識に委ねる。
ここにも従来の家父長型の家族主義発想はありません。

西さんは、子どもの頃から本に囲まれて、たくさんの物語になじんで育ったそうです。
そのためか、自分を主役に物語を語ることになれている。
そして、社員と一緒に物語を語りながら、社員とコミュニケーションを深めていくようです。
物語を語ることは大切です。
社員一人ひとりが主役になる組織、まさに「ティール組織」が目指されています。

ティール組織に関する議論もいろいろとありました。
ティール組織の議論は、社会の状況に合わせて組織の構成原理も変わっていくという話ですが、いまの日本の社会や人間は変わってきているのだろうかという話もありました。
上本さんは、朝の通勤時の電車の様子を見ると人間の質も上がっているのではないかと言いました。

西精工のような、人間の生活をつなげる「人間尊重型」の経営は、どこでも実現できるのか。
参加者からは、地域社会の特性と無縁でないのではないのかという意見が出ました。
東京と地方の会社に関わっていて、そう実感されているようです。
上本さんも、四国という土地柄が関係しているかもしれないと言います。
まさにティール組織論が言うように、社会の状況が組織のありようを決めていく。
同時にまた、組織のありようが社会のありようを決めていくのかもしれません。
だからこそ、会社のありようは社会的にも大切なのです。

企業は社長の経営観や価値観で変わってくる。
しかし、会社を変えていくには、社長一人ではなく、何人かのコアになる人が必要だという意見も、実際に企業変革に関わっている人から出されました。
西さんの経営観は、どこで培われたのか、もしかしたら1年間の入院生活が何らかの影響を与えているのではないか、という話も出ました。
人は世界の広さによって、経営観も変わってきます。
大病経験が西さんの経営観を豊かにしたのかもしれません。
障害を持つ社員がいるおかげで、経営に関する考え方も広くなったという参加者の発言もありました。

まだまだいろんな話が出ましたが、長くなりすぎたので、これでやめます。
上本さんが、時々ポツンとつぶやいた言葉が私にいろんなことを考えさせてくれました。
経営者からの話も示唆に富むことが多いですが、編集者から企業のことを聞くことの意味がよくわかりました。

いつもながら、私の関心に合わせて報告させてもらいました。
個人と組織(会社には限りません)をテーマにしたサロンは、来年も続けます。

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2018/12/06

■節子への挽歌4066:また書きだします

節子
また挽歌をすっかりご無沙汰してしまいました。
どうも最近、怠惰癖が高じています。
朝の般若心経も最近は簡略版が増えています。
人は怠惰になると際限なく怠惰になれるものであることは、以前にも体験していますが、困ったものです。
しかし、ただただ閉じこもっているわけではなく、まわりではいろんなことが起こっています。
でもなんとなく気が晴れない。
どうしてかは自分でもよくわかりません。

ただ矛盾した言い方ですが、ちょっと前を向けるようになってきているのが自分でもわかります。
いろんな人が働きかけてくれることもあるのですが、新しいことへの関心も生まれだしています。
そのせいか、もう30年ほど生きてもいいなという気がしてきましたが、まあそれは無理でしょう。
30年でやれることを3年でやることを考えなければいけません。
怠惰などといってはいられないわけです。

挽歌で書きたいこともたくさんあるのですが、パソコンの具合があまり良くなかったことを理由に挽歌やホームページをさぼっていたら、それになれてしまいまいました。
しかしこんなに間があいてしまったとは残念です。
今日からまたブログを復活します。
たぶん、ですが。

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2018/12/05

■カフェサロン「人はなぜ巡礼に向かうのか」のお誘い

今年最後のサロンは、「人はなぜ巡礼に向かうのか」をテーマにすることにしました。
年末のこの忙しい時に、「巡礼」と思われるかもしれませんが、年末のあわただしい時期にこそふさわしいテーマではないかと考えました。

問題提起してくれるのは、何回か湯島のサロンで巡礼の話をしてくれた鈴木章弘さんです。
今年も4回目のサンティアゴ巡礼に行ってきました。
一昨年と昨年は四国も歩いています。
インドも体験されています。
まさに「巡礼道(じゅんれいどう)」に取り組む巡礼者です。

サンティアゴ巡礼や四国遍路の話は以前にしてもらいました。
そこで今回はちょっと趣向を変えて、巡礼生活を続けている鈴木さんに「なぜ巡礼に行くのか」を話してもらうことにしました。
鈴木さんの話だけではありません。
巡礼の途中で世界各国の巡礼者たちと鈴木さんは会うわけですが、そこからきっとたくさんのことを感じているはずです。
そこで、「人はなぜ巡礼に向かうのか」について、まずは「鈴木さんの場合」を話してもらい、それから巡礼で出会った人たちのことを思い出しながら、鈴木さんに限らない巡礼者の動機やそこで得るものを、鈴木さんの解釈で話してもらうことにしました。
同時に、巡礼によってどう生き方が変わってきたのか、繰り返し巡礼に行くことによって「巡礼」というものの意味や捉え方が変わってきたのではないか、そんな話もしてもらおうと思います。

鈴木さんは、巡礼の途中で会った人との付き合いが広がっています。
サンティアゴ巡礼に行った時には、その人の家に泊めてもらったり、その人が四国遍路に来た時は鈴木さんは最初の1週間をわざわざ付き合ったりしています。
巡礼の途中でほんのわずかの話をしただけで、人はつながれる。
日本人との付き合いは、そう広がっていないように思える鈴木さんが、なぜ世界中の人とそんなにも深くつながってしまうのか。
巡礼道や聖地の持つ、何か大きなものを感じます。

しかし、サンティアゴ巡礼は1~2か月かかるので、鈴木さんのようにそう簡単に行けるわけではありません。
そこで、サンティアゴなどの巡礼で、鈴木さんが得た「巡礼道」の片りんを少しだけ分けてもらえるようなサロンにできればと思います。
きっと巡礼に行こうとしないで生きている私のような者にも、生き方を問い直すヒントがもらえるかも知れません。
「なぜ私は巡礼に行かないのか」の答えが見つかるかもしれません。

あわただしい年末の時間を、巡礼サロンで過ごすのもいいかもしれません。
みなさんの参加をお待ちします。

〇日時:2018年12月22日(土曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「人はなぜ巡礼に向かうのか」
〇問題提起:鈴木章弘さん(巡礼者)
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)

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2018/12/04

■カフェサロン「私はなぜ湯島でサロンをやることになってしまったのか」のお誘い

いつも湯島のサロンに関心を持っていただき、ありがとうございます。
毎年1回だけ、私が話をさせていただくサロンをさせてもらっています。
一昨年は「新しい経済」、昨年は「新しい政治」をテーマに、経済と政治のパラダイム(枠組み)に関して話をさせてもらいました。
今年は、「新しい生き方(社会)〕という、これまた壮大なテーマで話をさせてもらおうと思います。
といっても言うまでもなく講演ではなく、まあ私の改めての自己紹介という程度の話です。

自己紹介などやっても誰も参加しないと幼なじみの友人から言われましたが、同じく幼なじみの友人からは、社会に出てからどんなことをやっているのか全くわからないので聞きたいという人もいましたし、佐藤さんはどういう人かわからないとサロンに時々来ている複数の人からも言われていますので、まあやってみようかと案内を始める締め切りギリギリの今日、決断しました。
決断と言えるほどのことでもないですが。

しかし長く生きているとそれなりにいろいろありますので、絞らないといけません。
そこで、湯島のサロンに焦点を合わせることにして、私が「なぜ湯島でサロンをはじめ、なぜ今も続けているのか」を軸にして、私の話をさせてもらうことにしました。
暇に任せて無駄なことをやっていると思われる方もいるかもしれませんが、一応、それなりにビジョンや目的はあるのです。

どんな話になるかは、保証の限りではありませんが、気が向いたらご参加してください。

〇日時:2018年12月16日(日曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「私はなぜ湯島でサロンをやることになってしまったのか」
〇問題提起:佐藤修(湯島のサロンの主宰者)
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)

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■コムケアサロン「家族の介護・相続に向き合う」報告

高齢社会の中で、私たちはもっと高齢期に起こりうるさまざまな問題にしっかりと向き合っていくようにしないといけません。
子育てへの関心は高まっていますが、高齢期の生活に対しては、老後の蓄え意識はあるものの具体的な課題に関する準備に取り組んでいる人はあまりいないような気もします。
そもそも問題が顕在化するまでは、問題さえ見えていない人も少なくありません。
老後の蓄えも、多くの人はお金で考えていますが、お金にできることには限界があります。
むしろ大切なのは、お金ではなく、たとえば人のつながりだったり、健康だったり、趣味や仕事(対価を得る仕事という意味ではありません)ではないかと思います。
問題が起こってからお金を使うと考えている人が多いですが、お金はむしろ問題を起こさないためにこそ使うべきです。
それにお金は、たとえば遺産相続に見るように、生活を乱す不幸を引き起こすことさえ、あります。

以上は私の私見ですが、こうした視点で地道な活動に取り組んでいる千葉晃一さん(一般社団法人コレカラ・サポート代表理事)に、高齢者を取り巻く様々な問題やそれを支援するさまざまな社会資源を紹介していただき、高齢者が生きやすい社会に向けてのヒントをたくさんいただいたサロンでした。
千葉さんは、高齢者の抱える問題の相談に乗る活動をしながら、一緒に問題解決に当たる仲間を増やそうとコーピング講座を広げていますが、お会いするたびに、千葉さんの考えや活動が進化しているのを感じます。
それは机上論ではなく、千葉さんが現場での実践を、問題に直面している当事者と伴走しながら考えているからでしょう。
高齢者の問題は、それぞれに人によって全く違いますので、理屈では対応できません。

冒頭にとても示唆に富む話がありました。
迷惑をかけたくないという相談者に対して、それは自分の視点であって、迷惑かどうかは相手が決めることではないかと千葉さんはお話しすることがあるそうです。
とても共感できます。
その一言に、私は千葉さんの相談の基本姿勢が象徴されているように感じました。
千葉さんが取り組んでいるコーピングとは「課題に向き合うこと」ですが、誰の視点で課題を捉えるかで全く違ってきます。

高齢者の生活の問題を千葉さんは5つに分けて捉えています。
経済的問題、健康の問題、住まいの問題、人間関係の希薄、そして生きがいの問題です。
コレカラ・サポートでは、こうした5つの面を踏まえて、高齢者と伴走しながら支援しています。
大切なのは、それぞれの問題を各論的に捉えるのではなく、全体をつなげながら捉えていくことです。
しかし、ひとりの人間ですべてに対応することは難しい。
それでそれぞれに得意な人たちのゆるやかなネットワークを活かしながら、伴走支援をしているのですが、そのためにはある特別の問題に詳しいだけではなく、5つの問題を含む全体がある程度見えていることが大切です。
そして問題に応じて、その人に一番ふさわしい相談相手を見つけていくという、コーディネーター的な役割を果たせる人を増やしてくことが、千葉さんの望んでいることです。
場合によっては、問題を抱えている人が、自分の体験を誰かの問題解決のために活かしていくことができれば、まさに「支え合う社会」へと近づきます。

こう考えていくと、千葉さんたちが目指しているのは「信頼できる人のつながり」を育てていくことと言えるでしょう。
これはまさにコムケア活動や湯島のサロン活動の理念でもあります。

千葉さんは、もうひとつ、すでにある様々な社会資源や社会制度を活用するためにも、そうした知識を身に着けておくことが大切だといいます。
問題が発生してからでは遅いので、日ごろからアンテナを張っておくこと、あるいはそうしたことをよく知っている人とのつながりをつくっておくことが大切だというわけです。

こういう話をしてもらった後、参加者での話し合いが始まりました。
今回とてもよかったと私が思ったのは、ある特定の人の具体的な問題が開示されたのを契機に、千葉さんだけでなく、参加者みんながその人の問題を一緒に考えアドバイスし合ったことです。
いつかまたその人から報告があるかもしれません。

高齢社会は、みんなが支え合う社会ではないかと私は考えていて、25年ほど前に「早く来い来い、高齢社会」という小論をいくつかの研究所の機関誌に掲載したことがあります。
みんながコーピングの力をつけていけば、社会はとても住みやすくなる。
今回のサロンで、改めてそう思いました。

なお千葉さんたちがやっているコーピング講座については千葉さんにお問い合わせください。
また今回のサロンの話は、改めて映像記録を制作することも考えていますので、またもし制作できたらご案内させてもらいます。


Coping181202


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■弁護士と検事の使命

あおり運転死亡事故の裁判が話題になっています。
裁判の報道を見ていつも、検事にしろ弁護士にしろ、その基本的な姿勢に違和感を持つことが少なくありません。
つまり「裁判制度」そのものに私は違和感があるのです。
私自身もちょっとした裁判に関わる機会もあって、ますますその感を強くしました。

たとえば今回の事件で、弁護士はどうしたら被告の罰を軽くしようかといろんな論理づけをしています。
逆に検事はどうしたら被告の罪を重くできるかを考えているような気がします。
停車した後の事件なので「危険運転死傷罪」は成立せずに無罪だと弁護士は主張し、検事は法律に照らすと危険運転死傷罪は成立しにくいので、監禁致死傷罪も考えようとしているようです。
しかし裁判で問われることはそんなことではないのではないかと思うのです。

弁護士の役割は、被告の人権を守ることです。
人権を守るとはどういうことか。
もちろん冤罪は避けなければいけませんが、明らかに冤罪ではない今回の事件のような場合に、被告の人権を守るということは無罪にすることではなく、適切な罰を課することだろうと思います。
適切な罰を受けさせることこそが、私の考える個人の尊厳の尊重です。
個人の尊厳は、犯した罪に適切に服することも含意されていると私は思っています。
罪を逃れることと冤罪とは、私には同じものに思えます。
いずれも個人の尊厳を損なっている。

検事と弁護士は対立関係にあるわけではなく、違った視点から起こったことを評価し、より良い結論を導くための、いわば協力者でなければいけません。
駆け引きを主軸にした裁判にはどうも違和感があります。
映画「12人の怒れる男」での陪審員の時間をかけた話し合いこそ、裁判の基本でなければいけません。
お互いに証拠を隠し合って、相手を負かすことに精力を注ぐような裁判は、私には大きな違和感があります。
裁判はゲームでも闘争でもないのです。

もしかりに今回の事件の被告が無罪になったらとしたら、一番報われないのは被告ではないかと私は思います。
弁護士は、そうならないように、被告の尊厳を守るべきではないか。
罪は罪として認めることこそが、被告の、これまでのたぶんいろいろと問題が多かっただろう人生を正してやることにつながるのではないか。
そんな気がしてなりません。

報道から感ずる限り、今回の事件の弁護士には被告への愛情は感じられません。
そんなことは必要ないし無理だと言われそうですが、個人の尊厳を守るということは愛なくしては成り立ちません。
仕事として弁護士を選んだ以上、被告の尊厳を守ることにこそ人生をかけなければいけないと私は思います。
被告の悪いことは悪いとはっきりと質していかなければ、個人の尊厳は守れません。

きちんとした裁きが行なわれる社会こそ、みんなが安心できる社会です。
検察と弁護士と裁判官が一緒になって、三方よしの裁きをしてほしいと思っています。

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