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2018/12/14

■動いている時だけが運転しているとは恐ろしい話です

あおり運転事件の判決には驚きました。
止まっているときは運転とは言わないそうです。
どう考えてもおかしいでしょう。
しかしある弁護士はテレビで、「市民感覚には合わないかもしれないが、法的に言うとそうなる」と話しています。
この発言に、法曹界の専門家のおごりを感じます。
法律を市民感覚に準拠して解釈するのが法律の専門家の使命のはずです。
どう考えても理解できない。
運転とは何かを少し真面目に考えてほしいです。

運転は動いたり停止したりする行為です。
デジタル的に言えば、動いているときも止まっている状態の連続という捉え方さえありますが、それはともかく、停止中の行為は運転中の行為ではないというのはおかしいでしょう。

しかも、市民感覚には合わないかもしれないが、法的に言うとそうなるなどと白を切るに至っては許せません。

多くの人は、専門家は正しいと思いがちですが、そんなことは全くありません。
私の感覚では、いわゆる専門家には、知的でさえない人が圧倒的に多いのです。
いや怒りのために少し言い過ぎました。
反省。
しかし、お上だから、専門家だから、東大出だから、国家資格を持っているから、などということに騙されてはいけません。
その正しさを、みなさんも今年はたくさん体験したでしょう。

物事が正しいかどうかは絶対的な基準などありません。
その時代の多くの人が納得することが、その時代においては正しいことの基準です。
市民感覚こそが、正しさにとっての一番の準拠になるのです。
しかし、それだと混乱も起きかねないので、安定度を高めるためにつくられたのが成文法です。
しかし、その解釈は時代によって柔軟に対応できるように、解釈の余地があり、それを託されているのが司法関係者なのです。
彼らが基準にするべきは、法文としての法律ではなく、市民感覚なのです。

私が大学の法学部で学んだことの、それがすべてです。

テレビを見て、あまりにも馬鹿げた判決なので、とりあえず思いつきで書いてしまったので、きっと冷静になったら後悔するでしょう。
しかし、第一印象はとても大切です。
直感的に感じたことの方が、私の人生においては正しかったことが少なくありませんので。
冷静になって考えることは、往々にして悪しき洗脳の結果であるからです。

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