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2019/01/20

■節子への挽歌4088:友人といってもさまざまです

節子
抗ガン治療をしている友人と電話で話しました。
年が明けて一度お見舞いに行こうと思っていたのですが、自分自身があんまり調子が良くなく、その気になれず、電話で済ませてしまっています。
電話だと実際の状況は分からずに、むしろ私よりも彼のほうが元気そうでした。
節子のことを思い出しました。

かなり症状が悪化してきたころでも、節子の電話の声は明るくしっかりしていました。
電話に出ると、なぜか急に元気になるようで、声だけではなく身体からの生命力も変わるような気がしました。
そして電話が終わると、急に心身から生命力が失われたように、崩れ落ちるように横になるのです。
決して演技ではないのですが、生命の不思議を感じます。

私もそうで、湯島で人と会っている時はなぜか元気です。
もっとも最近は、そうでもない時もあるのですが、自分では疲れの意識はあまりないのです。
しかし自宅に着いた途端に、疲れがどっと出てきて、ソファーに座ったきり動きたくなくなることもあります。

人は他者からもらう「気」で生きているのかもしれません。
抗ガン治療している友人は、独り身で一人住まいです。
電話ではあまり「気」は遅れないかもしれませんが、ささやかには役立てているかもしれません。

彼は、私の小学校時代の同級生ですが、同じ同級生からメールで、一度、集まりをしてほしいと連絡がありました。
集まりを呼びかけるとこないくせに、少し間を置くと集まりをしてほしいといってくる。
実のところ、気は乗らないのですが、まあお互い、いつ終わるかもしれませんので、私の気が戻ってきたら、またみんなにも声をかけようと思います。

しかし同じ同級生でも、自然と会おうという気になる人と誘われても会おうという気にならない人がいます。
それは、性格の違いというよりも、たぶん「生き方」の違いです。
死を近く感ずると、それぞれの過去の生きざまが露呈されてきます。
私にも会いたい人と会いたくない人がいることでしょう。
今さら遅いでしょうが、最近そういうことがようやくはっきりとわかってきました。
葬儀にどれだけの人が集まってくれるか。
その意味で、節子は幸せな人でした。
私よりも、きっといい生き方をしていたのでしょう。

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