■節子への挽歌4087:存在していない人とのコミュニケーション
節子
今日は5時半に起きました。
少しずつ生活のリズムを戻していこうと思います。
といっても、この季節、5時はまだ真っ暗です。
私の小さな書斎兼仕事場でパソコンに向かいましたが、寒くて手が凍えそうです。
しかしそのうち、慣れるでしょう。
最近、実は酢玉ねぎを少しサボっていて、食べていません。
そのせいか、なんだか血圧が高いような気がすることが時々あります。
何となく違和感があり、後頭部がもやもやするのです。
冬は血圧を測るのも面倒なので、図ってはいないのですが、注意しなければいけません。
まあしかし、生命体は壊れる時には壊れるものです。
パソコンでそれを何回も体験しています。
生命体とパソコンは違うといわれそうですが、まあ同じようなものでしょう。
先日のヴェーダのサロンで、話し合いの途中で、ついうっかりと「私はこの部屋の蛍光灯とも話せます」と言ってしまいました。
人とは話し合えるが物とは話し合えないというような発言につい反応してしまったのです。
それを聞いていた参加者の中には、この人はちょっと危ういなと腰が引けた人がいるかもしれません。
しかし、私が言いたかったのは、人でも想いを分かち合うことは難しい、物と想いを分かち合うのとそう違わないということを伝えたかったのです。
そもそも個別の想いを分かち合うことなどできないのです。
逆に言えば、他者である人と分かち合えると思えるような程度であれば、自然や人間が作った造作物とでも通い合えると私は思っています。
今朝は起きる前にそんなことを思い出しながら、節子とは果たして「想いをシェア」していたかとちょっと考えてみました。
たぶんシェアしてはいなかった。
しかし、思いをシェアすることが不要な関係というのもあるのかもしれません。
そんなこんなで、今朝は少し節子とコミュニケーションした気がします。
節子は現世には存在していませんが、存在していない人とのコミュニケーションもできる。
とすれば、目の前にある機械や蛍光灯とのコミュニケーションなど、いとも簡単なことかもしれません。
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