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2019/01/21

■節子への挽歌4091:「不幸」がなければ「幸せ」は見えてきません

節子
先日、インドのヴェーダ占星術をテーマにしたサロンを開きました。
ヴェーダといえば思い出すのが、アーユルヴェーダです。
節子のがんの状況をインドから来日したアーユルヴェーダの高名な脈診のドクターに診てもらいました。
残念ながら、その時の診立ては間違っていましたので、以来、私自身はアーユルヴェーダには懐疑的です。
しかし、だからといって、アーユルヴェーダを否定しているわけではありません。
どんなものにも間違いはあるからです。

ヴェーダそのものに関しては、昔はかなり本も読みましたが、あまり理解できていません。
ただ、日本語で「占星術」とか「魂」と言ってしまうと、やはり少し違和感が生じます。
私の関心は、かなり哲学的な側面なのです。
最近も、赤松明彦さんの「インド哲学10講」を読みましたが、理解しがたいところが多かったのですが、ヴェーダへの関心は高まっています。
ヴェーダはおそらくアブラハム系の啓示宗教にもつながっていると思いますが、古代ギリシアの哲学よりも私には理解しやすい気がします。

ところでそのサロンで、「魂」の存在が議論になりました。
節子との別れを体験した私には、議論するような問題ではなく、「魂」を前提にしなければ、思考が一歩も前に動き出さないのですが、魂の存在を前提にせずに生を生きている人がいるのがとても不思議です。
そういう人は、魂を何か『危ういもの』と考えているようで、昨日もそうした電話を受けて、いささか不快な思いをしてしまいました。
魂を語ることに強い拒否感があるようです。
そういう人こそ、救いが必要ではないかと思いますが、そもそもにおいてそういう人は「救い」など求めていません。
「不幸」のない人生、つまり言い換えれば「幸せ」のない人生を送ってきているのでしょう。
「不幸」がなければ「幸せ」は見えてきません。

インドには今もなお「カースト」の文化があります。
カーストも問題になりますが、あれもおそらくみんなが生きやすくなるための仕組みだったのでしょう。
おそらくたくさんの「不幸」と「幸せ」があったころに生まれた仕組みです。
「不幸」と「幸せ」は、悩ましい問題です。

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