■節子への挽歌4083:死や別れの学び
節子
昨年のある出会いがきっかけで、今年は「葬儀」の問題を考えることになりました。
すべての出会いには、必ず意味があります。
私が節子に出会ったのも、意味があったのですから。
その関係で、昨日と今日とで「死」にかかわる本を3冊読みました。
2冊は看護師の書いたもので、そこにはさまざまな死の事例が語られていました。
それぞれに深いメッセージを感じられるものですが、やはり実際に伴侶をみとった立場からすれば、いささか淡泊すぎる気がします。
というよりも、観察的な死の語り口にはいささかの違和感さえもちましたが、その一方で、節子との別れの前にこれを読んでいたら、どうだっただろうかとも思います。
よかったのか、よくなかったのか。
これは微妙な問題です。
2冊を読み終えたときには、こういう話を多くの人に読んでもらっておいたら、死を迎えるための準備ができて、後悔することが少なくなるだろうと思いました。
私にも、それが当てはまったなとも感じました。
しかし、少しして、ちょっと違うかなと思いだしました。
あまり死の事例を読んでしまうと、気分らしい「別れ」ができなくなる恐れもある。
死や別れはあくまでの一回性のものでるならば、準備をしたりせずに、むしろ「おろおろ」して、あとで後悔するような慌てぶりや失敗があってこそ、いいのではないか。
そんな気もしてきました。
新しい葬儀活動を一緒に考えている友人から、喪主をやったことのある佐藤さんはどんな葬儀がいいと思っているのか、と問われているのですが、考えれば考えるほど、答えが遠のく気がしています。
節子との別れや葬儀をもう一度、やり直せるとしたら、どうするか。
今考えると、やはり私が体験した、自分を見失って、不満の多かった、あの葬儀は、もしかしたら一番良かったのではないかという気さえしてきます。
なぜなら、不満やミスは多かったですが、私としては精いっぱいに節子を見送ることができたからです。
何よりも、おかしな言い方ですが、節子と一緒に、葬儀を執り行った気がするのです。
ほとんど実現できませんでしたが、私なりの私たちスタイルを目指しました。
これは両親の時とは全く違います。
その違いはなんなのか。
これは、「葬儀」の問題ではなく、「伴侶」の問題かもしれません。
ちなみに、「伴侶」は必ずしも夫婦の相手というわけではありません。
本の話に戻れば、たくさんの死や別れのエピソードのなかには、夫や妻の死の話はありましたが、「伴侶の死」ということを実感できた事例は残念ながら私にはありませんでした。
「伴侶の死」は、「自らの死」でもある。
私の体験がいささか特殊なのでしょうか。
これはもう少し考えてみたいと思います。
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