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2019/02/26

■主権者の思いと統治者の思い

統治権とは、国土と国民を治める権利のことで、国家の最高権力です。
大辞林には「主権者が国土・人民を支配し、治めること」と書かれていますが、日本憲法のもとでは、国民が主権者とされていますので、「国民が人民を支配する」ということになります。
近代国民国家は、基本的に国民主権を標榜していますので、いささかややこしくなってしまいます。
「国民」と「人民」とは、全く違った概念だと私は思いますが、ここではあまり厳密に考えずに、日本国憲法が両者を同一視しているように、同じだと考えれば、大辞林の定義は「国民が国民を支配する」ということになり、頭はこんがらがってしまいます。
そうしたところに、実は大きな落とし穴があり、統治者という支配者を見えなくしてしまっているのです。

法治国家という言葉もややこしいです。
「法治」とはいうまでもなく、「法が治める」ではなく、「法で治める」ですが、恣意的な人の要素が排除されると思いがちです。
たしかに恣意的な要素を減らすことは間違いありませんが、法というのは解釈が行われて実際に執行されない限り意味はありませんので、人の要素が排除されるわけではありません。
つまり、法が統治するのではなく、法を基準にして「統治者」が統治するのです。
このあたりも、私たちが騙されやすいところです。
大切なのは、法文ではなく、法を活かす精神です。

たくさんの人々で構成される国家を統治するのは、2つの方法しかありません。
最終的な統治権を非論理的な人に託すか、論理的な機械に託すか。
しかし、論理的な機械に託する政治にしたとしても、人の要素を完全に排除することはできません。
政治は、最後まで「人の要素」からは解放されません。
極端の言い方をすれば、統治には必ず最終決定者が存在します。
もしそれをなくそうとすれば、責任回避の疑似統治体制が育ってしまいます。
そもそも「制度」や「組織」は、責任回避の仕組みなのです。
もちろん、それによって、私たちの暮らしは豊かになってきました。
それが悪いわけではありません。
しかし、そうしたことの向こうにいる、「統治者」の存在を忘れてはいけません。
「お客様」だとか「主権者」だとかいう、実体のない言葉に満足していてはいけません。
突然「お客様」という言葉を出しましたが、これはビジネスの世界と似ているからです。
「顧客の創造」などという経営学が広がっていることと、今の日本の政治状況は、つながっています。

余計な事ばかり書いてしまいましたが、主権者である国民の思いとは別に、統治者が存在するのであれば、どうしたら、国民の思いを統治権者(統治者)の統治に合わせられるのか、が問題です。
その一つの方法は「国民投票」です。
もちろんこれは「両刃の剣」ですが、統治者と国民(主権)をつなぐ一つのルートであることは間違いありません。
この問題を少し考えてみたいと思います。

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