■節子への挽歌4113:死と老い
節子
死を意識することは、多くの人にはなかなか抵抗があるようです。
私もそうでした。
一時は、「アンチエージング」などという言葉にも共感したこともありました。
もちろんそんな「過ち」からはすぐに抜け出しましたが、今は「健全な老化」を目指して、老人らしく老いようと考えています。
しかし、意外とそれが難しい。
今日は小学校時代の友人が湯島に来ました。
いま抗がん剤治療をしていますが、たまには外出したいというので、私をお見舞いに来てもらったのです。
幸か不幸か、私の体調は回復してしまっていたのですが、本来は私が見舞いに行くべき立場なのです。
でもまあ、常識の反対を好む私としては、素直に見舞いを受け、しかもお昼をごちそうになってしまいました。
特上のうなぎがいいだろうと彼が頼んだのですが、彼が完食できるかどうか気になっていたのですが、見事に完食しました。
私もそれにつられて完食しました。
私はともかく、彼が回復基調にあるのがわかってホッとしました。
食べる様子や顔の表情を見れば、その人の状況はわかります。
言葉はうそをついても、身体はうそをつきませんから。
心配していましたが、安心しました。
しかし、最後にやや疲れた感じが出たので、ちょっと気になっています。
彼のがんは根治していないのです。
明日また電話しようと思います。
自分の死に関しては、何の抵抗もなく語れます。
しかし、友人とはいえ、彼とはまだ死に関しては話し合えません。
老いに関して、かなり語り合えるようになりましたが、なかなか「死」にはたどり着けません。
死と老いは、つながっているようで、つながっていないようです。
でも、「健全な老い」を進めていけば、「健全な死」にたどり着けるでしょう。
今日は彼と会った後、上野のびわ湖長浜 KANNON HOUSEに「いも観音」に会いに行く予定でしたが、何やら無性に疲れてしまいました。
もしかしたら、やはり私の方が見舞われるべき状況にあるのかもしれません。
困ったものです。
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