■節子への挽歌4115:見えなかったことが見えてくる
節子
最近また不思議な夢をよく見ます。
私が知らない場所や知らない人ばかりでてきます。
民俗学の研究者であるにもかかわらず、大学の先生の職を辞して、特別養護老人ホームで介護職員をしている六車由美さんという人がいます。
私は面識はなく、彼女の著書で、知っただけですが、その本を思い出して、メモしていた文章を読みなおしました。
こんな文章です。
年をとるとは、個人差はあるにせよ、それまでは見えなかったものが見えたり、聞こえなかったものが聞こえるようになる。
民俗学では、老人も子どもも神に近い存在とみなされますが、いずれも「見えない世界」が見えているわけです。
孫はまだ2歳ですが、時々、あらぬ方向を凝視していることがあります。
歳と共にだんだんとなくなっては来ましたが。
昨日も庭の鉢の土を見ていて、いも虫君がいるといったのですが、大人たちには見えませんでした。
見えなかったものが見えてくる傾向は、節子を見送った時の方が多かった気がしますが、最近また、夢に限らず、「あらざるもの」の存在を時々感ずるようになってきました。
そして、夢では全く記憶にない世界が時々出てきます。
しかも目覚めたとたんに、それを具体的には思い出せないのです。
しかし、なにやら不思議な感覚だけは残ります。
その一方で、現世の俗事のわずらわしさをこの頃、意識するようになってきました。
高齢になると、俗世を離れて隠棲したくなる気分が、少しずつ高まっているのかもしれません。
私は、前にも書いたように、健全(自然)に老いていきたいと思っています。
それが難しくて、いまだに俗世への未練があったり、消えない物欲に惑わされたりしているのですが、「老いること」のむずかしさも実感しています。
でも、何かこれまで見えていなかったことが、時々、見えたような気がすることもあります。
そして、なんでこんなことに煩わされていたのだろうかと思うこともあります。
困ったものです。
夢でうなされることはないのですが、目が覚めても夢に覆われていることが時々あるのです。
昨夜の夢は、新しい世界への誘いのような気がしますが、現世の悩ましい問題など気にするなということでしょうか。
昨日から、また、えも言えぬ「不安」が心身に広がっています。
折角、体調が回復したのに、すっきりしません。
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