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2019/02/19

■「贈与と共生の経済倫理学」(折戸えとな著)をぜひ多くの人に読んでほしいです。

とても共感できる本に出会いました。
折戸えとなさんの書いた「贈与と共生の経済倫理学」(図書出版ヘウレーカ出版)です。
有機農業の里として知られる埼玉県小川町にある霜里農場の金子美登さんの実践活動と、そこに関わりながら、誠実に生きている人たちのライフストーリーをベースに、新しい生き方(新しい社会のあり方)を示唆する、意欲的な本です。
「贈与と共生の経済倫理学」という書名にいささかひるんでしまう人もいると思いますが、さまざまな人の具体的な生き方や発言が中心になっているので、自らの生き方とつなげて読んでいけます。
要約的に言えば、人間の生の全体性を回復するための実践の書です。

ただ読みだしたときには、ちょっと驚きました。
レヴィナスの「他者の顔とは、私たちに何かを呼びかける存在としてそこに現前している」という言葉や、イリイチのコンヴィヴィアリティ(自立共生)といった言葉が出てきたからです。
しかし、さぞや難解な文章が続くと覚悟したとたんに、今度は金子さんや彼とつながりのあるさまざまな立場の人たちに対するインタビューによって描き出される生々しいライフストーリーが始まります。
そのあたりから、引き込まれるように一気に読んでしまいました。
ちなみに、レヴィナスとイリイチの言葉は、本書の描き出す世界の主軸になっています。
もう一つの基軸は、ポランニーの「経済を社会関係に埋め戻す」という命題です。
こう書くと何やら難しそうに感ずるかもしれませんが、そうしたことを解説するのではなく、むしろそうした概念に実体を与え、日ごろの私たちの生き方につなげていくというのが、著者の意図です。

金子美登さんがなぜ有機農業に取り組んだのかは、きわめて明確です。
象徴する金子さんの言葉が最初に出てきます。

「より安全でよりうまい牛乳を、喜んで消費者に飲んでもらうことが、私のささやかな望みであり、これが可能でないような農業はあまりにもみじめなのではないか。このようなことが実現されてはじめて、自分の喜びが真の喜びになると思っていたのである」。

つまり出発点は、金子さんの生きる喜びへの思いなのです。
私は、そこに、理屈からは出てこない「ほんもの」を感じます。

しかし「この本質をつく農業を行っていたのでは、目的の生活がなりたたない社会の仕組みとなってしまっている」という社会の現実の前で、金子さんのさまざまな活動が始まっていきます。
その取り組みは、失敗したり成功したりするのですが、いろんな試行錯誤の結果、現在、行きついているのが、金銭契約ではなく、「お礼制」という仕組みです。
「お礼制」とは、出来たものを消費者に贈与し、それへの謝礼は「消費者の側で自由に決めてください」という形で、生産者と消費者がつながっていく、という仕組みです。
そのつながりは、お互いをよりよく知りあい、「もろともの関係」に育っていくことで、双方に大きな生活の安心感が育ってくる。
そして、ものやお金のやりとりを超えた人のつながりが広がっていく。
新しい生き方、新しい社会のあり方のヒントがそこにある。

契約を超えた「お礼制」と「もろともの関係」に集約される本書の内容は、簡単には紹介できませんが、出版社であるヘウレーカのサイトにある解説で、概要はつかめるかもしれません。
https://www.heureka-books.com/books/396
また本書の帯に書かれている内山節さんの推薦文も、本書の的確な要約になっています。
「有機農業によって自然と和解し、価格をつけない流通を成立させることによって貨幣の呪縛から自由になる。それを実現させた、独りの農民の営みを見ながら、本書は人間が自由に生きるための根源的な課題を提示している」。

つまり、本書は自由に生きるための生き方を示唆しくれているのです。
それもさまざまな生き方を具体的に例示しながらです。
そして、自由な生き方にとって大切なのは〈責任・自由・信頼〉を核にした生き方だというメッセージにつながっていきます。
言葉を単に並べただけではありません。
折戸さんは、「責任」「自由」「信頼」の言葉の意味をしっかりと吟味し、それをつなげて考えています。

金子さんは「ことばの世界に生きていない」と自らを位置づけているそうですが、折戸さんもまた、別の意味で「ことばの世界に生きていない」人だと感じました。

本書のキーワドは、書名にあるように、「贈与」「共生」「倫理」です。
いずれも聞き飽きた退屈な言葉ですが、この「流行語」がしっかりと地に足付けて語られています。
しかもそれが大きな物語を創っているばかりか、人が生きることの意味さえも伝えているのです。
同じような言葉を並べた、書名が似た本とは全く違います。

たとえば「倫理」。
倫理に関する本を読んで私はいつも違和感を持ってしまいます。
私の実際の生き方につながってこないからです。
倫理(ethics)という言葉の語源であるギリシア語のエトスは、「ねぐら」「住み処」という意味です。
つまり、その人の生活圏での暮らしを通じて形づくられる「生き方」や「振る舞い方」、言い換えれば、どうしたら快適に暮らせるかのルールとすべき価値の基準が「倫理」だと、私は考えています。
折戸さんは、たぶんそういう意味で「経済倫理学」という言葉を選んだのでしょう。
崇高な理想などとは無縁の話で、「いかに善く生きるか」が著者の関心です。
そして、それぞれが善く生きていれば社会は豊かになると、たぶん確信しているのでしょう。
私も、そう確信している一人です。

生きやすさを求めることを「倫理」と考えれば、そのカギとなるのは「贈与」と「共生」だと折戸さんは言います。
ここでも折戸さんは退屈な定義には満足していません。
贈与とは「他者との関係性を豊かにすること」であり、「共生」とは「もろともの関係」で生きることだというのです。
いずれにも「覚悟」が必要です。
これだけで、本書は退屈な「贈与」や「共生」を解説する本ではないことがわかってもらえると思います。

ついでに言えば、書名にあるもう2つの言葉、「経済」と「学」についても、折戸さんは、前者は「オイコノミクス(家政)」「経世済民」と捉え、後者に関しても、あいまいな「言葉」だけでは不十分だと指摘しているような気がします。

以上のことは、私の勝手な解釈ですので、折戸さんからは叱られるかもしれません。
しかし、本書を読んでいると、彼女の深くて実践的な問題意識と新しい学への意欲をいたるところで感じます。

ところで、レヴィナスの「顔」はどうかかわっているのか。
そこに込められたメッセージは「個人の尊厳の尊重」であり、ほんとのコミュニケーションは、顔を持った個人間で行われるということです。
個人が存在しなければ、ほんとうのコミュニケーションも成立しない。
そして、イリイチのコンヴィヴィアリティやサブシステンス概念は、まさに「もろともの関係」に具現化されています。

折戸さんが「終わりに」に書き残した文章を、少し長いですが、引用させてもらいます。

巨大システムの中で個が一括管理されていくような世界で、自然と不可分につながっている人間たちの尊厳をかけた運動は、私たちの生存と生きがい、生産と再生産、自由、責任、信頼にとってなくてはならない不可欠な要素なのである。その意味において、たとえすべての人が、生活全体を「もろとも」の関係性で構築することは不可能であったとしても、このような関係性のない世界では、私たちは生きることができないといっても過言ではないだろう。

関係性のない世界で生きることに多くの人が馴らされてきている現在の社会に少しでも違和感を持っている人には、ぜひとも読んでいただきたい本です。
きっと新しい気づきや生きるヒントを得られると思います。
そして、できるならば、折戸さんが残したメッセージ(本書の「おわりに」に示されています)を引き継ぐ人が現れることを心から願っています。

いつも以上に主観的な、しかも長い紹介になってしましたが、もう少し蛇足を。
著者の折戸えとなさんには、私は残念ながらお会いする機会を失しました。
お名前はお聞きしていましたが、まさかこういう本を書かれていたとは知りませんでした。
折戸えとなさんは、本書を仕上げた後、亡くなりました。
お会いできなかったのが、心底、残念です。
本書を読んだ後、どんな人だったのだろうと思っていたら、その後、会う機会を得た折戸さんの伴侶から、なぜか写真が送られてきました。
人は会うべき人には必ず会うものだという私の確信は、今回も実現しました。

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