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2019/02/08

■節子への挽歌4105:雪を待っていますが、なかなか降りだしません

節子
今日は夜から雪が降るようです。
寒い一日でしたが、私は在宅でのんびりさせてもらいました。
しかし、朝方、ちょっと不安定な状況で、ちょっとだけ心配になりました。
頭がふらついて、倒れそうな気配だったのです。
午前中、静かにしていたら、安定しましたが。
午後も静かにしていますが、早く雪が降ってこないかと思って、時々外を見ていますが、まだ降りだす気配はありません。
前にも書きましたが、私は雪が大好きなのです。

雪を待つ間に、2つのブログを書きました。
ひとつは「統治権」、もう一つは「児童の虐待死事件」です。
昔から児童虐待はあったとはいうものの、今回のように多くの人が知りながら、そして子供が助けをはっきりと求めていたにも関わらず、そして助けることはさほど難しくはなかったにもかかわらず、悲惨事件が起こってしまったことに、いまの社会のあり方が象徴されています。
こういう時代を生きなくてよかった節子がうらやましい気もします。
たった13年しか経っていませんが、社会は大きく変質してしまいました。

もっとも私がその変化を過剰に感じているのかもしれません。
もし節子がいたら、私の感じ方も違っていたかもしれません。
ひとりで社会の変化を受け止めるのと、2人で受け止めるのでは、きっと大きく違うはずです。
そう思いだしたのは、節子がいなくなって数年たってからです。
社会のちょっとした変化が、今の私にはとても大きく感じられます。

街並みの変化も、受け取り方が全く違ってきています。
節子は東京で進んでいる開発には、比較的、寛容というか、むしろそれを楽しんでいました。
あるところが開発されると、そこにわざわざ見に行くこともありましたし、私もそれに付き合わされることもありました。
そして、私自身、当時はそれにさほど否定的ではありませんでした。
汐留も丸の内も六本木も、私も少しだけ楽しみました。
しかし、節子がいなくなってから、私はどうも都心開発には違和感があります。
というよりもどちらかというと、拒否感がある。
変化への適応性が弱まっているのです。

私の時間が、たぶんどこかで止まっているのでしょう。
困ったものです。

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