■日馬富士が断髪しながら貴ノ岩に語りかけていたのを見て幸せになりました
昨日、貴ノ岩の断髪式が行われましたが、その様子をテレビでみました。
今朝の新聞にも出ていましたが、日馬富士が断髪しながら貴ノ岩に語りかけていたのが、印象的でした。
その様子を見て、この問題でずっと気になっていたことがスーッと消えていくような気がしました。
日馬富士と貴ノ岩の人間関係が壊れるはずがないと思っていたのです。
2人とも私は面識もありませんが、とてもうれしい映像でした。
この事件が起きた時に、私が思ったのは「文化の違い」でした。
昨年は、スポーツ界の不祥事がたくさん報じられましたが、すべては「文化の違い」が大きく影響しているように思います。
それが、周辺の人たちによって、違いの修復ではなく違いの増幅が進められ問題化されてしまう。
そして誰もが気持ち良い解決に向かわずに、問題も何一つ解決しない。 そういう気持ちが強まっていたのです。
そうした「文化の違い」に対して、大きな歴史の流れは「寛容」になってきているとばかり思っていたのですが、最近の動きを見ると、むしろ逆に「寛容さ」を失ってきているように思います。
そして、その違いも、どんどん「表層」の違いに目が行き出している。
「文化の違い」の根底にある、人間性にはなかなか目が向かない。
そこに目が向けば、違いはほとんどが克服されると私は思っています。
そして、「文化の違い」を活かしあう形で、人間性を豊かにしていくはずです。
私は湯島で毎週のようにサロンをやっていますが、それは「寛容さ」を育てるために、異質な世界と触れ合う場を広げようという思いがあるからです。
前に、ある平和の集会でも話させてもらいましたが、それが私の「平和活動」なのです。
さまざまな立場や考えに触れることによって、私自身はかなり世界を広げ、その結果として、私が共感できなかったり理解できなかったりしていることにも、かなり許容できるようになってきていると思っています。
時々、ストレスを強く感じることはありますが。
貴ノ岩の断髪式の話に戻ります。
非常に象徴的だったのは、日馬富士と貴ノ岩の笑顔と貴乃花の断髪式欠席です。
そこに私は、「文化の違い」と「人間性」を改めて感じたのです。
そもそも日馬富士と貴ノ岩の「事件」は、モンゴル出身の日本力士の世界の「文化」と、貴乃花の世界の「文化」の「ずれ」の話だと思っていました。
問題が「事件化」する前に、2人は仲直りしていました。
同じ文化のなかでの解決がすべて良い訳ではないでしょうが、文化はそうした苦い体験も重ねながら豊かになっていく。
貴ノ岩の頭のけががテレビで映し出されましたので、驚いた人もいたかもしれませんが、私の経験から言って、大したけがではないと思いましたし、日馬富士に「悪意」などあろうはずがないとも思っていました。
それに関しては、当時もブログで書きました。
私が一番気になっていたのは、二重の意味で異郷の文化の中でお互いに頑張ってきた日馬富士と貴ノ岩の関係でした。
ですから今回の映像は、とてもうれしいものでした。
「暴力」があまりに悪役になっています。 「暴力」の捉え方は、「文化」によって大きく違います。
「暴力」そのものがもし悪いのであれば、「暴力」を「制度的に独占」している国家は、悪の権化になってしまいます。
「暴力」とは何かということも大切な問題です。
最近も、小学生の子供が父親の「暴力」で命を落としてしまいましたが、彼女の悲痛な訴えを聞きながら、あろうことかそのことを父親に教えてしまった教育委員会の職員の行為は、私には父親以上に悪質な「暴力」だと思います。
もちろん個人攻撃をしたいわけではなく、彼もまた大きな暴力の装置になかに投げ込まれていたと言ってもいい。
うすうす事情を知っていた周辺の人たちの行為も私には「暴力」に感じられます。
もっと言い換えれば、子どもたちの世界を取り囲んでいる、多くの暴力装置(例えば学校制度)も気になります。
ヨハン・ガルトゥングは「構造的暴力」という言葉も使いながら、暴力を捉えていますが、私も「構造的暴力」こそが問題だと思っています。
ただ、直接的な暴力を認めているわけではありません。
私も心情的にはガンジーの非暴力・不服従の思想に共感しますし、いささか極端とはいえ、アーミッシュの生活にもあこがれがあります。
あそこまで、人を強くする宗教には、違う意味での「暴力性」も感じない訳ではありませんが。
ただその一方で、自らの中にある「暴力性」も否定できずにいます。
したがって、「暴力絶対否定論者」には違和感があります。
「いずれにしろ暴力は許せない」という言葉から始まる、事件の解説者には全く共感できません。
その一言にも、私は「暴力性」と「観察者目線」を感ずるからです。
それに暴力は絶対許せないと言えるほど、私には自信がありません。
話がまとまらなくなってきましたが、ともかく昨日の日馬富士と貴ノ岩のツーショットは、私にはとてもうれしいシーンでした。
そのシーンを見たおかげで、長引いていた風邪が昨日で治りました。
それだけを書きたかったのですが、話が広がってしまいました。
ちなみに、最近のテレビのニュースは、見ていてどんどん気が萎えていく話が多すぎます。
そんなニュースはやめて、もっと元気が出る話題や事件を流してほしいです。
テレビ界の人たちは、みんなきっと「不幸な人生」を歩んでいるのでしょが、ちょっと視点を変えると、世の中には、「いい話」もたくさんありますよ。
暗い話ばかり追いかけていると、病気になりますよ。
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