■統治行為と統治権
昨日は久しぶりにリンカーンクラブ代表の武田さんと「統治行為と統治権」について激論をしました。
いま武田さんが、この問題を論考し、まとめているのです。
武田さんは、小林直樹さんの「憲法講義」を議論の一つの材料にしていますが、小林直樹さんは私が学生時代、しっかりと講義を聞いた数少ない教授です。
ちょうど私が大学に入ったころに、この「憲法講義」の原型がテキストになりました(当時はまだ上巻だけでした)。
大学時代のテキストはほぼすべて廃棄しましたが、3冊だけ捨てずにまだ持っている本がありますが、その1冊がその「憲法講義」です。
そこに、統治行為に関する短い指摘がありますが、残念ながら「統治権」への明確な言及は見当たりません。
私は三権分立が統治の基本的な枠組みだと、学んでしまいました。
しかし、実際に会社に入り、社会の仕組みが少しずつわかってくるにつけ、三権分立では統治はできないということに気づきました。
三権分立は「仕組み」ですから、その上に「意志」がなければいけません。
国民主権という概念も理念であって、統治の精神でしかないことも気づきました。
さらに言えば、古代ギリシアが民主主義であるはずがないことにも気づきました。
デモクラシーを民主主義と訳したのが基本的な間違いだったように思います。
デモクラシーと民主主義は違うものだということは、リンカーンクラブでご一緒した政治学者の阿部斉さんに気づかせてもらいました。
砂川判決は、統治の構造を露呈してくれました。
高度な政治性を有する問題は、三権分立には馴染まないとして、司法の対象から外したのです。
言い替えれば、司法とは権力に抗うのではなく、権力に加担するということを明らかにしたわけです。
同じように、安全保障の意味もかなり可視化してくれました。
しかしその後も、言うまでもなく憲法学者や法学者は統治権を隠そうと頑張りました。
学者とは基本的に権力に加担するのがミッションですから、それは仕方がありません。
悪意があったわけではないでしょう。知性がなかっただけです。
統治とは、本来は「高度の政治性」が主舞台です。
それを見えなくしているのが、「近代国家」かもしれません。
そうしたことが最近どんどん見え出してきています。
それが露呈しだしたのは、小泉政権だったと思います。
露呈というよりも、開き直りといったほうがいいかもしれません。
それがその後、どんどん加速され、見えない統治権者のために政治はどんどん劣化しました。
嘘が見逃され、嘘が正道になり、よりどころのない政治が広がりだしました。
小泉さんは自民党を壊したのではなく、日本の政治(社会)を壊したのです。
小泉さんにも悪意があったわけではないでしょう。知性がなかっただけです。
統治権という概念とその正体については、最近、在野のジャーナリストや一部の政治学者が広く発言しだしました。
しかし長きにわたって見えない統治者に依存する生き方に慣れてしまうと、構造が見えてもそれに抗う気が、私も含めて国民にはなかなか起きてきません。
言い換えれば、みんな「国民」に育てられてしまったのです。
ではどうすればいいか。
武田さんは今日から温泉宿に缶詰めになって、論考をまとめるそうです。
その論考がまとまったら、湯島でサロンを開いてもらおうと思います。
関心のある方はご連絡ください。
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