■節子への挽歌4155:人が好きなのか嫌いなのか
節子
一人で生きていける人と一人では生きていけない人がいます。
今日、お昼を一緒に食べた若者は、家族とはほとんど付き合いがないそうで、驚きました。
一人でも全くさびしくないと言っていました。
ところで、私が今日気づいたのは、一人で生きていける人ほど知人友人と一緒に行動している人が多く、一人でいる時間はむしろ少ないのではないかということです。
逆に、私のように、一人では生きていけない人間は、知人友人と行動を共にすることは少なく結果として一人でいる時間が多いのではないか。
いささかややこしい物言いですが、こういうことです。
私は誰かとお酒を飲んだり一緒に旅行に行ったりすることはさほど好きではありません。
しかし、「いまここに」ではなくとも、いざとなったら私を全面的に受容する人の存在を実感できないと不安がつきまといます。
そういう存在があれば、一人でいることも苦痛ではありません。
行為は一人でやるが存在は一人ではないという実感が持てるといってもいいかもしれません。
四国遍路の同行2人という感じでしょうか。
私にとっては、いうまでもなく、それは節子なのですが、別に現世に存在しなくとも大丈夫です。
そう思えるようになったのは、つい最近なのですが。
私は、人が大好きだと思っていますし、事実、2~3日、誰とも合わないと誰かに会いたくなります。
しかし、本当は人間嫌いなのではないか、という思いもいつも心のどこかにある。
人に会うと、いろんなことが起こり、頼まれてもいないことをしたくなってしまう。
いや、したいわけではなく、「知ったことの責任」が発生し、自分でできることを探してしまう。
若いころは、それなりにできたのですが、いまは「思う」だけで、なかなか実践につながらない。
そうなると負担感がどうしても残ってしまう。
もしかしたら、そうした負担感を補償するように、最近は、人に「利用」されているのかもしれないと思うことが増えている気がします。
かつて何人かの人たちに、利用されているんじゃないかと注意されたこともありますが、最近、やはりそうだったのかと思うこともすくなくありません。
事実、それなりの被害も受けていますが、最近はそれを心静かに受容できなくなってもいます。
普通の人とは、反対かもしれません。
今日会った若者は、家族とはつながっていないのに、明るい顔と声をしていました。
若さのせいでしょうか。
最近、どうも生きることへの迷いが生まれてしまっています。
困ったものです。
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