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2019/03/08

■節子への挽歌4126: 人はどれだけの他者を必要とするか

節子
先日、上田さんと「コミューン」について少し話し合いました。
その時に、見田宗介の「交響するコミューン」によると、たった2人でもコミューンは成立すると言っているとお聞きしました。
気になって、本を探しましたが、何しろ整理できていない書庫なので見つかりません。
それで早速注文して読み直しましたが、そういう文章に出会えません。
気になってしまうとどうしようもなく、上田さんにどこにあるかと確認して、岩波新書の「社会学入門」を教えてもらいました。
今度は何とか書棚から見つけ出して、早速に読みました。
私が読んだのは、もう今から10年以上前ですが、その時にはたぶんさほど印象付けられなかったようで、記憶には全く残っていませんでした。
読み直してみて、とても納得できる文章でした。

見田さんは、「人はどれだけの土地を必要とするか」というロシアの問いにかけて、人はどれだけの関係を必要とするかということを、私たちは問うてみることができる、と書いています。
他者のない生は空虚であり、ほとんど死と変わりがない。生が生きるということの意味を取り戻し、歓びに充ちた生涯であるためには、他者は何人、必要かと問うのです。
見田さんの答えは、こうです。


極限の場合、激しい相互的な愛が存在している限り、この他者は一人であっても、なお永劫の生を意味づけるに足るものである。

共感します。
人数の問題ではなく、一人であろうと他者がいることが大切なのです。

しかし、今回、私が共感したのは、上田さんがぽつりと語ったように、相互的な愛が存在している限り他者は一人であっても十分だというところです。
それこそが、コミューンの基本かもしれなません。
念のために言えば、「一人であっても」ということは、「一人であること」にとどまってはいないでしょう。
一人を愛することができれば、みんなも愛することができる。
みんなを愛することができなければ、一人をもたぶん愛せない。
それが私の体験知です。

この文章を、節子が逝ってしまった直後に読んでいたら、受け取り方はかなり違っていたでしょう。
その頃は、まだ、節子への愛の意味があまりわかっていなかったからです。

2人のコミューンが成り立てば、そこからたくさんの人たちとのコミューンもきっと育っていく。
それが最近の私の、なんとなくの思いです。

上田さんがまた帰国したら、改めてお話をお聞きしようと思います。

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