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2019/03/30

■節子への挽歌4159:「意味がない無意味」

節子
「意味がない無意味」という書名に惹かれて、千葉雅也さんの本を読みました。
私にはなかなか消化できない内容の本ですが、どこかに惹かれるものを感じて、理解できないまま読み終えました。
理解できていないのですから、読み終えたというのは正しくはないのですが、
ただ、こうした消化できないまま何となく読み進んでしまうのも、私の読書法の一つです。
わからないままにも、断片的な刺激を受けて、何となく自らの考えを意味出してしまうという、おかしな読み方です。

本書にも気になる言葉がたくさんありました。
たとえば、「エビデンシャリズムの蔓延は一種の責任回避の現象」、「コミュニケーションの不可避な失敗」「行為の本質とは、「頭空っぽ性」」などという言葉には、思いを広げてしまいました。
また「荘子」に出てくるに「胡蝶の夢」の話も出てきます。
「胡蝶の夢」については、挽歌の早い時期に書いた記憶がありますが、死とは何か、生きるとは何かを考える深い示唆を感じます。

しかし、何よりも私が興味を持ったのは、書名である「意味がない無意味」という言葉です。
この言葉と合わせて、「意味がある無意味」も語られています。
また本書では語られていませんが、当然「意味がない意味」や「意味がある意味」という表現もできるでしょう。

そして、そもそも「意味」の主体はなんなのか、つまり「意味」とはだれにとってのものなのかも大切なテーマです。
この点は、本書では語られていませんが、視点を気まない「意味論」は、私にはまったく無意味に思えます。
しかし、そんなことを言い出したら、本書の意味が全く否定されかねませんが、それはそれとして、本書を理解できなかったことは棚に上げて、本書から刺激された思考は読後広がりだしています。
言い換えれば、本に書かれていないことを読んでしまうのが、私の一つの読書法なのです。

私の最近の人生も、そしてこの挽歌も、「意味がない無意味」を含む典型的なものかもしれません。
しかし、にもかかわらず、私にはとても意味があるのです。
というわけで、これからもこの挽歌を続けようと改めて思いだしました。

まさに今日のこの挽歌は、「意味がない無意味」な文章ですが、「意味がないこと」は「意味があること」だということを勝手に合点してしまったのが、この私には不得手な本を読んだ結果です。

ちなみに、また「荘子」も読んでみたくなりました。

 

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