■節子への挽歌4151:知の衰え
節子
昨日、生命力や体力の衰えを感じてきていることを書きました。
しかし、衰えはそれだけではありません。
認めたくはないのですが、知力の衰えもまた否定できません。
それは、「名前が出てこない」とか「物忘れが多くなったとか」、そんなレベルの話ではありません。
ひらめきというか、論理を超えた理解力というような、知の活動力の時空間がなんとなく生き生きとしていなくなったという感じです。
後で考えると、なんでそんなことに気づかなかったのかと思えることが増えてきている気がします。
それと時間感覚がどうも躍動的ではありません。
時間の流れがいかにも遅い。
いや逆に言えば、自らの時間感覚が緩やかになってきているために、時間のたつのが速いのです。
自分が時計の時間に追いついていけないのです。
こうしてみんな土に戻っていくのでしょうが、生命の時間とは違う時間感覚が生まれだしているといってもいいかもしれません。
それを「知の衰え」と言うか、「知の熟成」と言うか、物は言いようですが、もし「自分」という存在があるのであれば、明らかに、その「自分」の時間は歩みをゆるめています。
逆説的ですが、だから時の進みがとても速い、あるいは時間の密度が粗いのです。
それが、最近の充実感や倦怠感にもつながっているのかもしれません。
しかも、そうしたことが下方向きのらせん状に起こっている感じなのです。
まあ、そういうことが「生命力」の衰えというのでしょうが。
こういう意識を強めているのは、半年くらい前からです。
残念ながら、知や生命の衰えをカバーしてくれるものはありません。
むしろ抗うことなく、静かに対応していくのが一番いいでしょう。
それが人生を熟させていくことなのかもしれません。
強さとは違うしなやかさは、そこから生まれるのかもしれない。
この1週間、ある小論を何回か読んでいます。
しかし、その小論からうまく著者のメッセージを汲み取れないでいます。
知識や情報の不足のせいでは、たぶんないでしょう。
しかも、そんなに難しい文章でもない。
にもかかわらず、書き手の思いがどうも理解できないのです。
そして、それを読んでも自らの思いを育てられない。
短い論文なのに、何回読んでも汲み取れない。
知の衰えを感ずるのは、当然とはいえ、少なからずの衝撃です。
春になったら、知力は戻ってくるでしょうか。
成熟した知になって。
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