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2019/03/12

■節子への挽歌4133:家族のすごさ

節子
前の挽歌で、「みんなに支えられて」と書きましたが、言うまでもなく私は「家族に支えられて」生きています。
もちろんその「家族」には節子も入ります。

先週、鳥取に戻った矢辺さんに湯島でサロンをしました。
その内容は時評編に書きましたが、残念ながら節子は矢辺さんに会えていないと思います。
いや、一度くらいは会っているかもしれませんね。
だいぶたくましくなりましたが、まだしっかりと純粋な目を持った若者です。

彼は東京で自分の会社まで立ち上げていたのですが、お父さんから戻ってきてほしいといわれ、会社をたたんで戻ったのです。
東京の会社には、彼の大きな「志」やビジョンもあったのですが。
なぜ戻ったかの理由を、矢辺さんは「家族が大好きで、自分が思い切って生きられてきたのは、何かあれば家族が支えてくれるだろうという確信があったから」と話してくれました。
そして、家族があるということはすごいことだと付け加えました。
家族という、生活基盤があればこそ、社会でリスクを冒すこともできるというわけです。
とても共感できます。
そして、まだこう考えている若者がいるということに、とても安堵しました。

いまの時代、多くの人がバラバラになってしまい、家族も変質しだしているといわれます。
家族がむしろ個人を縛っているという人も少なくありません。
湯島のサロンでも、家事や子育てなど女性の負担が大きいという声はよく出ます。
こうした意見には、私は異論がありますが、仮にもしそうだとしても、だからといって家族を否定していいのかと思います。
ただあまりに血縁を重視しすぎる家族のあり方には異論があります。
そもそも、家族の核になっている夫婦には血縁などないのですから。

家族は、個人の存在論的安心感を保証する仕組みだと思っています。
同性であろうと年代が全く違おうと自分を全面的に投げ出せる誰かがそこにいる、そういうことが家族なのではないかと思います。

いささか社会性や常識が欠落している私が、今こうしてなんとか元気でいられるのは、いろんな人の支えのおかげですが、その根底に家族があったからです。

私も、家族のすごさを実感しています。
もし節子が今も元気だったら、私の生き方は全く違っていたと思いますが、いなくなった節子からも今もなお、支えられていることは間違いありません。

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