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2019/04/21

■節子への挽歌4199:「家族という呪い」

節子

昨日はサロンだったのですが、湯島に行く電車で最近出た「家族という呪い」という阿部恭子さんの新書を読みました。
副題が「加害者と暮らし続けるということ」とあったのが気になったからです。
読み終えて、湯島に着くころは気分がげんなりしてしまいました。

著者の阿部さんは加害者家族支援のNPO法人を立ち上げ、加害者家族の相談に乗ってきています。
幻冬舎の新書なので、軽く読めてしまう本ですが、同じ新書に下重暁子さんの「家族という病」という本もありますが、こういうタイトルに大きな違和感があります。
家族は「呪い」や「病」なのか。
そもそもそういうとらえ方に、私は不快感を持ってしまいます。

「ミッション・クリープ」という言葉があります。
当初対象としていた範囲を拡大したり、いつ終わるか見通しが立たないまま人や物の投入を続けていかなくてはならなくなった軍事政策を批判するアメリカの軍事用語でしたが、
「終わりの見えない展開」という意味で、広く使われてきています。

たとえば、人権概念の広がりにも使われることがあります。
どんどん対象を拡大している人権運動が、動物や自然にまで広がっているのはその一例です。
最近のパワハラやセクハラの捉え方も、そうかもしれません。

そういう動きを否定するつもりはありませんが、いささかの行き過ぎを感ずることもあります。
前にも時評編では「ゼロ・トレランス」への懸念を書いたことがありますが、とまることのないミッション・クリープにも危惧を感じています。
特に最近は私たちが生きる拠り所にしてきた家族が攻撃対象になっているのは残念です。
「攻撃」するのではなく「改善」していきたいと思います。

そういう意味で、私は「家族という呪い」とか「家族という病」とかいう言葉を軽軽に使う人の見識を疑いますが、しかしそういうほうが多くの人の関心を呼んで、問題意識を持ってもらうのには効果的なのでしょう。
ですから一概に否定すべきではないのですが、どうしても好きになれません。
「言葉」は「実体」を創っていくからです。

ところで、「家族という呪い」にはおぞましいほどのたくさんの事例が紹介されています。
ですから読み終えた後、げんなりしてしまって、昨日は元気が出ませんでした。
それがサロンにも少し出てしまい、疲れがさらに大きくなってしまいました。

人と関われば、良いことも悪いこともあります。
「呪い」を感ずることもあれば、「病」を感ずることもある。
しかし、そうでないこともたくさんあります。

大切なのは「病の家族」を健やかにし、「家族を苦しめる呪い」を祓っていくことです。
伴侶を亡くしたものにとって、病であろうと呪いであろうと家族も親子もとても価値のあるものです。
そして、それがあればこそ、家族のような仲間も生まれてくる。

ちなみに、私が考える家族は、血縁でも異性を軸にしたものでもありません。
一緒に暮らす(生きる)人の暮らし方くらいの意味です。
その基本モデルが、現在の「家族」制度ですが、その制度に制約される必要はないでしょう。
制度はあくまでも「手段」ですから、状況によって変わらなければいけません。

有識者の呪いや病を直してやりたい気もしますが、私の方が呪いにかかり、病を得ているのかもしれません。

それにしても、家族とは不思議なものです。
節子との関係を思うと、つくづくそう思います。

 

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