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2019/04/29

■多様性を受け入れるとはどういうことか

昨年、テレビ朝日で放映されていたドラマ「未解決の女」のドラマスペシャルが昨日放映されました。
わずかな文章から書き手の性格や思考を言い当てる能力を持つ警部補が、未解決の事件を解決していくという物語です。
言葉から事件を解いていくというのが、このドラマの面白さです。
「言葉の神様」は私にはあまり降りてきませんが、その存在は私もかたく信じています。

今回は、現場に品字様の文字が遺された連続殺人事件の物語でした。
品字様の文字とは「品」のように同じ漢字が3つ連なる文字のことです。
品字様の文字も面白いですが、今回書こうと思ったのは、ドラマを見ながら最近特に感じていることです。
ネタバレになりますが、ドラマの連続殺人は、恋人を過労死に追い込んだ会社の上司や関係者への「復讐劇」でした。
最後に犯人が、なぜ犯罪に至ったかを告白するのですが、私はこういう話に弱くて、いつも共感のあまり涙が出てしまうほどです。
そこでは、心情的には、加害者と被害者が逆転してしまうわけです。

そうした告白に対して、どんな事情があろうとも、人を殺めるような犯罪を起こしてはいけないと刑事が戒めるのが、このパターンのドラマの定型ですが、私はこういうセリフが好きではありません。
他人のことだからそんなきれいごとが言えるのだと内心思ってしまうのです。
それに、あなたは何の根拠をもって、加害者と被害者を決めるのか、と問いたくなるわけです。
ちゃんと自分で考えているのか、というわけです。
こういうやり取りの意味は実に大きいと思いますが、そうした言葉の洗脳には抗わなければいけません。

話は変わりますが、先日のスリランカの連続自爆テロは、IS の悪夢が決して「夢」ではなく、終わりがないことを教えてくれているような気がします。
なぜ終わらないかは、明白です。
終わりようがないのです。
もちろん終わらせる方法はあります。

最近読んだ「暴力の人類史」に紹介されていたのですが、法学者のドナルド・ブラックは、私たちが犯罪と呼ぶもののほとんどは、加害者の視点から見れば正義の追求だと主張しているそうです。
ブラックは膨大な犯罪データを解析した結果として、こう書いているそうです。

殺人のもっとも一般的な動機は、侮辱されたことへの報復、家庭内の争議がエスカレートしたもの、恋人の裏切りや失恋、嫉妬、復讐、自己防衛など、道徳的なもので、大部分の殺人事件は実質的には、ある一般市民が自ら判事、陪審員、そして執行人となった「死刑」である。

つまり、殺人の多くの実態は、「正義のための死刑(リンチ)」だというわけです。
ブラックはさらにこう書いているそうです。

「殺人を犯す者は、しばしば、自らの運命を当局の手に委ねているように見える。警察が到着するのをじっと待つ者も少なくないし、自分から通報する者もいる。このような場合には、殺人を犯した者は見方によっては殉教者といえるかもしれない。殺人を犯す者は自分が正しいと思っており、その帰結としての処罰を甘んじて受け入れるのだ」。

とても考えさせられます。

「正義」を語る人を私は好きになれませんし、「法律」に呪縛されている人も好きにはなれませんが、しかしISの悲劇を聞くたびに、ではどうしたらいいのかと自問します。
それで決めたのが、「正義」と「法律」から自らを解放しようということです。
「正義」も「法律」も、私にとっては、きわめて多義的なものになってきています。

「社会のため」とか「正義のため」という言葉は、軽々に使うべきではないでしょう。
その前にまず、自らの世界の広さをこそ顧みることが大切です。

今回、言いたかったのは、多様性を受け入れるとはどういうことかという問題提起なのです。
いつも誤解されるので、蛇足ながら。

 

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